第九話「悪夢の教室」
「何だよ……この教室……」
目的のクラスの前で、俺は思わず立ち止まる。廊下の窓から教室の中が見えるが、その光景が異様だったからだ。
朝のホームルームをやっているようで、さえない中年の男性教師が教壇に立ち、何やら事務連絡を伝えている。生徒は全員おとなしく机に座っている。
そこまでは問題ない。普通の学校の風景だ。しかし、一点だけ致命的におかしな点があった。
それは、”一人だけベランダの席に座っている生徒がいる”ということだ。
「どういうことだ……?」
たった一人だけ、ベランダに机と椅子がある。それは明らかに異様な光景だ。
何よりも気味悪いのは、クラスの誰もそれに対して疑問を持っていない様子ということだ。
生徒は全員、何事もないように先生の話を聞き、普通にホームルームをやっている。
信じられないのは教師も普通の様子ということだ。気づいてないなんてハズは無い。どう考えたって見える位置だ。それなのに平然と事務連絡を続けている。
明らかに異常な光景なのに、誰もそれを気にせず普通に過ごしている。それがなおさら気味悪い。
「あの子もなんで外にいるんだ?」
俺はベランダに座っている生徒に視線を向ける。
長い黒髪が印象的で、大人しそうな感じの女子だ。ここからだと良く見えないが、可愛い方だと思う。
しかし、そんなことよりも俺が違和感を感じるのは、この子も平然としているということだ。まるで自分がここにいるのは当然といったような態度で一人だけベランダの席に座っている。
何か事情があってそこにいるのか?クラスは25人くらいの人数で、別に入りきらないわけではなさそうだ。
いや、そもそも入りきらなくてもベランダってのはあり得ないだろ。
と、俺が様子を伺っているうちにホームルームが終了した。しかし教師も生徒も中から出て来ない。どうやらこのまま一限の授業を始めるようだ。
う~ん、どうしたものか。誰が『詩由原 曖』って子なのか聞き出したかったんだけど、この状況では教室に入れそうにない。
仕方ないので、俺はとりあえずこのまま廊下から教室の様子を伺うことにした。見つかっても能力を使えばいいわけだし。
そして暫く待っていると授業が始まった。しかしベランダの生徒はそのままだ。授業もベランダで受けているらしい。
これはさすがにおかしい。
そう思った俺は、ベランダの女子を注意深く観察した。そして、机に書かれた文字を見て全てを悟った。
「そういうことか……」
俺の視界に映ったのは、”死ね”だの”ゴミ”だのと言った胸糞悪くなる文字たち。机にマーカーで落書きのように書かれている。
「酷いな……」
あまりにも全員が平然としているため気づくのが遅れたが、どうやらベランダの子は好きであそこにいるわけではないようだ。要は、”いじめ”というやつだろう。
そして同時に悟ったのは、あの子が俺のパーティーメンバー候補の『詩由原 曖』なんだろうということだ。
雨崎の言っていた”心に闇を持つ者たち”。その意味がはっきりとわかった。
しかし、教師まで普通に授業しているというのはどういうことなんだ?どうしてなにも注意しないんだ?
そんな俺の疑問はすぐに解決された。
「ちょっと、ゴミ箱が臭いんですけど?」
一人の女子がそんなことを言った。そして、丸めた紙切れをベランダの彼女に向けて投げつけた。紙はベランダの彼女の顔にあたったが、彼女は文句の一つも言わなかった。
「……」
「何黙ってんの?ほら、”臭くてごめんなさい”って言いなさいよ」
そう言って再度紙を投げつける。
「……臭くてごめんなさい」
ベランダの彼女は俯きながら声を出す。
「おいおい!」
さすがにこれは酷過ぎるだろう。停学ものだと思う。俺は当然、教師が止めに入るだろうと思っていた。しかし──
「またお前か。次臭ったら便所に行ってもらうぞ」
教師がベランダの彼女に向かって言ったのはそんな言葉だった。その言葉で、教室中の生徒が笑い声を上げた。見た限り、全員が彼女をあざ笑っている。
「何が楽しいんだよ……」
どうやら教師を含め、彼女の味方はこのクラスには一人もいないようだ。
そうして授業が終わった。見ていて胸糞悪くなる光景だった。
「……」
おそらくあのベランダの子がパーティーメンバー候補だろう。何と声をかけて良いかわからないが、とりあえず話さないことには何も始まらない。
話すなら休み時間の今がチャンスだ。
そう思って教室に入ろうとした時、中から生徒が出てきた。その生徒たちと視線が合った瞬間、俺は何とも言えない不快感を感じた。
それはどの生徒も、歪な視線を向けてきていると感じたからだ。心の中でこっちを拒絶しているような、そんな感じ。
見慣れない奴が教室に入ろうとしているからだろうか?
いや、それにしてもここまで睨んではこないだろう。クラス単位でいじめをするような奴らだ。相当心がねじ曲がっているんだろう……。
俺は少し乱暴に教室のドアを開ける。平然と一人をいじめる教師や生徒にムカついたからだ。
一歩入ると、さらに嫌な感じがした。悪い気が満ちているとでも表現すればいいのだろうか。入った瞬間、どす黒い感情の渦のようなものを感じた。
休憩時間のため教室の生徒は疎らだが、その全員が俺に変な視線を向けてきた。言いたいことがあれば直接言えば良いものを、チラチラと見てくる。
この感じ、覚えがある……。
中学時代、ボッチだった俺に向けられていた視線と似ている。心の中でこっちを馬鹿にしてくるような目線。ヒソヒソと仲間うちで俺を馬鹿にする時の視線だ。”あいつ、またひとりだぜ”といった具合に。
「……」
その瞬間、思わず足が止まる。踏み出そうと思っても、足が前に出ない。
くそっ!怯むな!怯むな俺!
自分を奮い立たせようとするが、足が石のように重く感じる。
周りの視線がやたらと強く感じ、過去の嫌な思い出がフラッシュバックのように次々に思い出される。
教室で本を読む自分、そのすぐ近くで集団の話声が聞こえてくる。その内容は──
”あいつ、また一人で本なんて読んでるよ。何読んでんだ?”
”どうせオタクな本だろ?”
”うわぁキモっ!”
そんな声。わざと聞こえるように言っているのだろう。しかし、自分は何も反応せずに読書を続けた。
また別の場面。弁当を持って教室を出る自分。
そんな自分に笑い声と視線が向けられる。
”おい、見ろよ。また一人でどっか行くみたいだぞ”
”ひとりで図書室行って食ってるんだってよ”
”うわぁ……ドン引き”
自分はそんな声は聞こえないふりをして教室を後にした。
「……」
ダメだ。手が震える。冷や汗が流れる。どうしても足が動かない。
くそ……くそ……
くそ……くそ……
くそ……くそ……
ダメだ……。結局俺は何も変わっていない。
周りの視線が怖い、集団が怖い。
どうせ、俺なんて何もできっこないんだ。
そもそも異世界なんて本当にあるのか?雨崎にそそのかされただけなんじゃないのか?
頑張る意味なんてあるのか?
ボッチの俺にできることなんて……何もないじゃないか……。
「……」
俺は教室から出ようと足を引いた。その時──ベランダの彼女と目が合った。
あの子は何を思っているのだろうか?こんな酷い仕打ちを受けて、それでもどうして学校に通っているんだろうか?
俺がここで何もせずに帰ったらあの子はどうなるんだろうか?俺と同じ様に自ら命を絶ってしまうのだろうか?
──俺は何のためにここにいる?何をしようとしている?──
「俺は……」
──俺は何をしようとしている?何がしたい?──
「俺は……」
──どうして俺は今ここに立っている?どうして俺は生きている?──
「俺は……」
──答えろ俺!!──
「……異世界に……行きたい!」
そうだ。
俺はパーティーメンバーを集めて異世界に行くんだ。
こんなところで立ち止まっているわけにはいかない。
こんなところで諦めるわにはいかない。
そうだろう?
そのためにこうして生きているんだろう。
だからあの時、俺は覚悟を決めたんだ。
一度は死のうと思ったこの命、そのためにこうして生きているんだろう?
なのにこんなところで固まっててどうすんだ。
こっちはあと一週間で5人も説得しなきゃいけねぇんだ。
他人の視線など気にしている場合じゃねぇ。
睨みたきゃ睨めよガキ共。
お前たちの視線なぞ気にしてる場合じゃねぇんだよ。
お前らが俺をどう思おうが知ったこっちゃねぇんだよ!!
「おい、そこのお前」
俺は足を踏み出す。決して大きな一歩ではないが、俺にはとてつもなく大きな一歩に感じた。
何だか体が軽く感じる。吹っ切れたってのはこういうことなのか。
今なら初めて月面に降り立った宇宙飛行士の気持ちもわかりそうだ。
「はい?」
俺に声を掛けられた学生は訝しむような顔を向けてくる。周りのクラスメイトも何やらヒソヒソとこっちの様子を見ている。
しかし、今の俺にはそんなことはどうでも良い。今まで他人の視線を恐れていたのがアホらしく思える。いちいち気にしてどうすんだっての。
「”はい?”じゃねぇよ。お前に言ってんだ。『詩由原 曖』はどいつだ?」
「え?いや……」
尋ねても何やら周囲を気にした様子で、微妙な返事しか返してこない。そんな態度に俺は苛立ちを覚えた。そして、今の俺はそんな苛立ちを一切隠さない。
「おい、さっさと答えろ。二度はいわねぇぞ」
それだけ言って、俺は真顔で相手を睨む。
学ランを着て変装しているが、俺は現在22才。そしてここにいるのは高校1年生。さすがに威圧感が違うのか、目の前の学生は慌てたようにベランダの女子を指さした。
やはりか。俺の予想通り、彼女が俺のパーティメンバー候補ということらしい。
俺はゆっくりとベランダに向かう。教室の視線が集まっているが、知ったこっちゃない。見たきゃ勝手に見てろ。
「君が『詩由原 曖』だな?」
俺はベランダで一人机に座っている少女に声をかけた。
「……うん」
その問いかけに、彼女は小さく頷いてみせた。