二〇話 母へ
私、斎藤次目は闇の中に居た。
ここは何処だろう、死後の世界だろうか?
それとも生れ出づる前の世界だろうか。
死後は昔少々見てきたし、違うように思える。
(慎吾さん。)
凛として、しかしながら愛憎に歪んだおぞましい声を聴き、私は影に飲まれたことを思い出す。
つまりこれは母の中であり生れ出づる前の世界が正解に近かった。
(慎吾さん。)
母、斎藤七海がいた。
無限の暗闇の中で浮かぶように姿を現した母。
写真でしか見たことの無い姿。
その笑顔。
(慎吾さん!)
とてもとても愛おしいものを見つけた笑顔。
写真にも残っていない、どれよりも輝いている笑顔。
私が生まれた時よりも深く光る笑顔だ。
それは私、次目には向かっていないのだ。
暗闇から無数の数え切れないだけの腕が伸びてくる。
私は、余すところなく抑えつけられ暗闇の中で拘束され暗闇の地面に打ち付けられる。
(もう逃さない!逃げないで!裏切らないで!)
身じろぎ一つも許されない。
私は、無数の腕によって何度も何度も硬いのか軟らかいのかわからぬ暗闇に叩きつけられた。
暴力的な愛情に身体が引きちぎれてしまいそうだ。
私は意識があるのかないのかさえわからない暗闇の中で上も下もわからぬほど振り回され、痛めつけられ、抵抗する力を失っていった。
(ああ、慎吾さん。愛おしい、許さない。許されない。)
母よ。
あなたはまだ、見ないのか?
あなたが産み落とした命を無視するのか?
母の顔が私の目の前に迫った。
鬼気迫り血が流れ落ちる双眸。
頬まで裂けた口。
渇望が過ぎて乾ききった肌。
もうすっかり、鬼のよう。
愛に狂い、母である事を忘れた鬼。
(愛しい人、傷つけたい人、許せない人。)
母の腕が私の首に絡みつく。
まるで縄のように締め付けてくる。
(許さない、許さない、許さない)
やめて、もうこれ以上、無視しないで!
「やめて、お母さん。」
私は締め付けられて通りの悪くなった気道からなんとか息を吐き、声帯を震わせる。
「なんでうばってしまうんだ。私は、幸せだったのに」
(慎、吾さん?)
母が反応した。
私を見た。
初めて私を見つめてくれた。
「違うよ、私は次目。お母さん何で。」
(次目?慎、吾?)
「お母さんやめて、やだよ。」
(次目ちゃん?)
母が、私に気付いた。
息子を初めて認識したのだ。
(ああ、次目ちゃんどうしたの?痛いの?)
「お母さんだよ、お母さんがしたんだよ。何するの。」
(ああ、そんな、ああ…ごめんなさい。)
「いやだ、いやだよお母さんやめて。」
(あ、ああ、ごめんね、次目ちゃん、ごめんね)
母の形相が、怒りから悲しみへ。
憎しみから後悔へ変わっていく。
母の歪んだ体付きも、か細くか弱く変わっていく。
空間の暗闇も薄くなってきた。
私は気付いた。
これが、生き延びる唯一の手だ。
「お母さん、どうして酷いことするの?」
彼女の中の、かろうじて残っていた母親を責める。
それが彼女の罪悪感を喚起し、怒りを抑え、怨念を小さくしていく。
彼女を母親として糾弾するのだ。
(あああ、次目、ごめんね、ごめんなさい)
小さく小さくなって、泣く私に謝り慰めてくれる母。
私の頭を撫で、頬をなで、愛おしそうに、癒やすように。
それは私が望んだ母の姿だった。
「幸せだったのにどうしてとりあげちゃうの?」
(ああ、ごめんなさい…、めんね)
「やめて、痛い、お母さん、ひどい。」
(ああ、ああ!ごめんね、次目ちゃん)
かわいそうな母。
愛した夫に裏切られ、人生を捧げた妹に裏切られた母。
息子から責められる母。
この人が何をしたのだろう。
この人はただ人を愛して、愛し続けることを願っただけなのに。
慰めてあげたい、優しくしてあげたい。
私はそんな、思いとは裏腹の言葉をぶつけ続ける。
やめて、痛い、酷い、やめて………
(あ、ああ、ごめんなさい、ごめんなさい)
暗闇が晴れた。
私はリビングに倒れ込んでおり、闇に包まれ、そして解放された私を皆が心配そうに見ていた。
私の上で、闇もその姿も希薄になった、影ではない母が嗚咽している。
(ごめんなさい、ごめんなさい)
いいんだ、お母さん。
あなたは辛かったんだ。
「やだ、いやだ、痛くしないでお母さん。」
私はその上で責めるのだ。
あなたが悔やみ、苦しみ、消えるまで。
(ああ…………)
母の姿が消えた。
最期に見た母は、自責に耐えきれず悔やんでも悔やみきれずに泣く、一人の母親の顔だった。
かわいそうな母だった。
愛に狂い、愛に責められ、苦しみと悲しみの中、消えていった。
「次目くん!」
梨里ちゃんが声を上げる。
良かった、何事もなさそうである。
「七海さん、消えちゃう!」
私の所業を知った彼女は私を責める。
しかし遅い。
彼女はもういない。
「彼女は消えるべきだ。」
そう。
彼女はこれ以上留まるべきではない。
誰も彼女を幸せにはできないのだから。
いや、私にはできたかもしれない。
添い遂げる事はできなくとも、少しだけでも優しい言葉をかければ。
ほんの少しでも母親の幸せを感じさせれば。
会いたかった。
愛している。
産んでくれてありがとう。
そんな、嘘偽りのない気持ちを手向けてやるだけで彼女は少しでも救われたかもしれないのに。
私はそれらをすべてかなぐり捨てて、確実に母を消す事を選んだ。
「う、ぅぁあ」
私の嗚咽が漏れる。
だって、あの母の最期の表情。
本当に、悲しい。本当に。
全部、私の言葉によって傷ついていたのだもの。
本当に、本当に優しいお母さん。
「あ、ああぁ、あああああ!!」
母よ、ごめんなさい。
産んでくれて、生かしてくれてありがとう。
本当に、ごめんなさい。




