一七話 斎藤慎吾の8月3日
斎藤慎吾は砂糖菓子でできた人形のごとく愛らしく魅惑的に生まれ、両親と親類縁者全ての愛情を受け健やかに、純粋に、優秀に育ち、年頃には相応以上の信頼と友情と恋と愛をその身に刻みながら豊かに育った。
天が二物も三物も与えたような人物であったそうだ。
◇◇◇◇
順調過ぎる輝かしい人生を歩んだ彼が出会ったのは、黒髪が美しく、幸多いとは言えない人生の中、気高く強く生きてきた娘、神田七海であった。
彼女は生まれついて父母を亡くし、頼る親戚もなく妹と共に施設で育ち、真っ直ぐに、誇り高く、堅実に生きていた。
その強さ、気高さに斎藤慎吾は強く惹かれた。
恵まれたその男には無い境遇、誇り、強さ、その全てが宝石に見えたのだ。
拒絶されても拒絶されてもアプローチを繰り返し、彼は、ついに神田七海を斎藤七海とすることを成し遂げた。
彼女を幸せにする、それを天に神に誓った。
その証明として生まれたのが私、斎藤次目だ。
先を見通す目を持て、という想いは母の強い願いだった。
彼女は常に先を見て強く優しく生きてきて、今この幸せを手に入れたのだから。
そこまでは、私、斎藤次目の想像の範疇でもあった。
私の思った通り、綺麗なものしか知らぬが愛情深い父、美しく強い母、その姿に嘘偽りはなかった。
◇◇◇◇
しかしながら、その時、嘘偽りは無くても人は変わる。
いや、それもまた一つの真実であったのかもしれない。
強い光は多くのものを引き寄せる。
しかし、強過ぎる光はその身ごと焼き尽くしてしまう。
父の光はとても強く、それは本人の意志とは関係なく他者に作用し引き寄せた。
愛する妻の妹さえも。
そして自身さえもその光の中、目が眩んでしまうのだ。
神田紗里。
斎藤七海の妹。
斎藤七海が必死に守り育て、彼女の気高さの礎。
紗里は斎藤慎吾と許されない関係となり、慎吾と共に姿を消した。
母と私は祖母、斎藤小梅の下に残された。
捨てられたのだ。
光の中で生き続けた父は、目が眩み足を踏み外した。
地獄の底を照らしに落ちていった。
妻が大事に育ててきた誇りと共に、消えたのだ。
それは斎藤慎吾が神田七海に感じ、欲していた強さそのものだった。
彼は、最低の方法でその強さを支配する欲望を果たした。
光を失い、誇りを失った斎藤七海のその後は凄惨なものだった。
過ぎゆく日々に失望し、過ぎゆく未来を憎悪ひ、輝かしい過去を妬んだ。
自分と斎藤慎吾、それに関わる記録、写真の全てを破棄しあらゆる過去も未来もない事にした。
今、積み重ねている子供という未来をも無視した。
私は無視されていたのだ。
どんなに遡って考えてみても祖母の記憶しか残っていないのは当然だった。
父と母の記録が一切家に残っていないのも当然だった。
全て、斎藤七海が捨てたのだ。
私も含めて、捨てたのだ。
そうしてある日、斎藤七海はごくごく自然に自ら命を絶った。
彼女が最期の伴侶に選んだのは一本のロープだった。
◇◇◇◇
その後、1週間としないうちに訃報が届いた。
斎藤慎吾。
失踪先の職場で、ロープの事故による窒息死。
彼の首には手で締められたかの如くの跡が残っていたという。
それは8月3日。
奇しくも今日は斎藤慎吾、最悪の父の命日だった。
◇◇◇◇
「そのすぐ後、神田紗里も死んだ。」
「それも」ロープ、ということ?
おじさんは私の言葉を待たずして頷いた。
「それだけで済めば、因果応報。よくできた運命だった。」
おじさんは何か憑き物を落とすかのように大きく深呼吸をした。
その後、斎藤の直系親族全てが順番に変死した。
全員、死因は様々。
共通するのは、何故か首に残った縄の跡――。
残されたのは祖母斎藤小梅と私だけ。
親身であった祖母はきっと斎藤七海の僅かに残った情で見逃されたのだろう。
そして私はきっと、そこでも無視されたのだろう。
「信心深いわけではないが、これについては怨念としか言いようがなかった。」
そうか。
「そこに、四年前の次目君の事故、今日の家の有様だ。」
そういうことか。
「影は、母だったんだな。」
合点がいった。
または、何処かでそうと思っていたかもしれない。
おじさんは黙っていた。
私が事態を完全に把握したように、おじさんも私の現状が想像した通りだというのを私の言葉から察したのだろう。
「私は、恋をしたら殺されるんですよ。」
私は初めて、自分の運命を人に語った。
(うらぎるの?)
母は裏切りを責めていた。
私の心が誰かに向かうことを責めていた。
彼女の要求までわかってしまったのだ。
彼女は私に斎藤慎吾を見ている。
「母は私に斎藤慎吾として添い遂げる事を求めているんだ。」
斎藤次目はまたも、母から無視されているのだ。
「………い。」
今まで黙っていた恋が、動いた。
初恋、私の愛しい恋人。
彼女は、怒っていた。
私が礼を失していたその時以上に。
「絶対駄目。許さない。」
彼女は私の肩を掴み、宣言した。
「お化けだろうとお母さんだろうと、つぎめちゃんは渡さない。そんなの絶対許さない。」
「恋。」
「お父さんは黙ってて。そもそもこんな話してどうしようっていうの?何か手でもあるの?」
「いや、これは責任として。」
そう、おじさんは悪くない。
責めないでほしい。
「そんなの知らない。お父さんのバカ。お父さんのハゲ。でてって。」
まくしたてられ圧倒され「はい」と言ってすごすご追い出されるおじさん。
頭皮を確認するように手で撫でながら退却する姿が悲しみに満ちていた。
おばさんがにこにことその後を負う。
……おばさんが親指を人差しと中指の間に挟んだガッツポーズをしてウィンクしてきたが見えなかったことにした。
恋の部屋に二人きりになった。
「恋さんや。」
あまりお父さんをいじめないでおやり。
悪いのは私の父で、私に巡ってきたのはそのツケなのだ。
話と写真からするに父は相当なリア充坊っちゃんだったようだし辛苦に満ちた私がそんな者のツケを払わされる事も理不尽に思えてはいるが。
そう諭そうと彼女の頭を撫でていると、その手を掴まれ、そのまま私は座り込んでいた布団押し倒された。
恋が私に馬乗りになる。
突然の事に私は追いつけない。
「絶対に、つぎめちゃんはわたしのです。」
「はい。」
わたしもそうありたい。
「相手が何であろうとです。」
「はい。」
そうでありたい。
「なので、わたしが奪っちゃう。」
「はひ?」
恋が馬乗りのまま私に深いキスをする。
とてもとても深い、うわあなんだこれ。
口の中が恋に蹂躙される。
「…っん…ふ」
そのまま恋の顔は私の頬と通り、首にたどり着き、所有権を主張するかのように口でめちゃくちゃにする
「ひぇえ。」
情けない声が意思に関わりなく出る。
何を、何をなさるのお恋さん!
「つぎめちゃん、かわいい。」
「私がかわいくてもしょうがないやぃ。」
そんなの誰得なのだ。
恋の身体はより私に重くのしかかり密着し、すらっとのびるやわらかいふとももが私の股の間を優しく刺激する。
これはそんな、そんな。
恋さん、ちょっとお待ち。
「楽しみにしてた下着、見せれるね。」
服をはだけていく恋。
彼女のお腹の綺麗な肌と、お預けされていた淡いピンクが見えてくる。
本当だ、上下セットだ――ってそういうことじゃない。
「恋。」
私は恋の手を掴み静止する。
こんな勢いでしていいことではない。
私の身は呪いの化物に狙われているのだ。
彼女にまで降りかかるような事があれば私は耐えられない。
「……だ。」
恋が声を絞りだす。
「いやだ、嫌だ。つぎめちゃんを殺されるのも、奪われるのも全部、嫌だ。」
大粒の涙が浮かんでこぼれていく。
最愛の人、いつも優しい瞳、幸せであってほしい瞳から、哀しみがこぼれていく。
「そんなの許さない。だから私が先に奪うの。全部もらっちゃうの。何をどう邪魔したってつぎめちゃんは私の。誰にもあげない。」
彼女の涙が止まらない。
哀しい。
とても、哀しい。
私の母も、とても哀しい。
光に誇りも幸せも奪われ死してなお、まだ光に目が眩み、成長した私を光と見誤り求めてきた。
だが、だからといって私も、そして、私の最愛の人も不幸にしていい道理はないのだ。
許されない。
許さない。
母であっても、私の恋を泣かす事は許さない。
私は、やっと頭が動いてきたようだ。
思考が脳内を巡り、あらゆる手持ちの情報を結びつけ、状況を打開する手を探り出している。
悪意と事実に翻弄されてはいたが、そんなものは本来私には関係ないものであった。
神を殺してでも、この恋を大事にすると決断したこの斎藤次目、母であろうとなんであろうと躊躇う理由があるのか?
できるできないの問題ではない。
何をしてでも、生き延びる。
「恋。」
私は恋を抱き締める。
「私は死なないし、奪われない。」
恋に宣言する。
「絶対に何をしてでも、生き延びる、打開する。」
「うん、うん…うん。」
恋の涙は止まらないが、笑顔が帰ってきた。
抱き返す手に力が入り誰にも渡すものかとしっかりと繋ぎ止めてくれている。
「どうにかしよう。」
恋の目にも決意の光が灯った。
ああ、私は大丈夫、大丈夫なのだ。
彼女がついていてくれれば何だって大丈夫。
これから考えよう。
生き延びる道を二人で考えよう。
でもその前に。
「というわけで、私を恋にあげていいですか?」
「え?」
据え膳なんというか。
ここまで来たらもうなんというか。
「え、あっ、その。えっと。」
恋が慌てふためく。
勢いを失ったところから意思を確認されているのだ。
乗り越えるハードルはとても高いが
「……はいぃ。」
彼女は乗り越え、受け入れてくれたのだった。
私達はそのまま、奪われあった。
これでもう、私も恋も、他の誰にも奪われないのだ。