9話 Kissから始まるMiracle
信濃寛に恋する三人目の少女、滝本千代美。
彼女の願いはひとつ、彼に相応しい女になること。
放課後の第一校舎。
下へ下へと人が流れていく中を、逆らうように上へ上へと歩みを進める。
目的地は階段を上りきったところ、閉じられている屋上との出入り口前。
そこで私を呼び出した人が待っている。
呼び出しの理由はわかっている、交際の申し込みだ。
そんな話を持ち込まれるのは、今日が初めてのことじゃない。
二学期に入ってから、ひの、ふの、三人目になる。
一学期、地味で目立たなかった女が、夏休みが明けて人目を惹く容姿に変われば、何かあったんだろうと思うのは当然で、その何かで簡単に思いつくのは "ひと夏のアバンチュール"
そんな大人な経験している女ならば、声かけてみれば案外何とかなる、きっと男子諸君はそんな風に考えたのでしょうね。
だから、急に今まで気にも留めなかったような女に対して、思い出した様に声をかけてくるようになった、と。
私の在籍している商業科における男女比は一対三。
女があぶれているような状況じゃ、ちょっと声かけりゃなんとかなる。
そういう男の勝手な理屈がまかり通る空気が蔓延しているからなぁ、この学校。
ま、それを許してる女側にも問題はあるんだけど、今は云うまい。
なんにせよ、生憎とそんな艶っぽい出来事なんか無く、ただ地道に自分磨きをやってきた結果なのだけどね、今手に入れてる容姿は。
ただ、あの人に相応しい、あの人の好みの女になるために。
「待たせたかしら、大倉くん?」
階段を上りきった先、踊り場に手持ち無沙汰にひとり佇む男子、それが今回私を呼び出した相手、クラスは違うが同学年の大倉雄治くん。
「あ、いや。たいして待っちゃないよ」
軽く肩を竦めたりして余裕を持っている風にしたいのでしょうけど、身に付いてないのが見え見えですよ、っと。
「秋季大会の本選も近くて、野球部は今急がしいんじゃ?」
言外に、こんなことしているヒマあるの? って匂わせているのだけど、それに彼が気がつくかは……まぁ、あまり当てにはしないでおきましょうか。
「ああ、今日は少し遅れて行くって、マネージャーの方には伝えてる」
上手く行ったら後はそのまま練習もサボって……。なんて、そんな考えが見え透いてますよ。
というか、そんなこと云っといて見逃してもらえてるなんて、あなた戦力外だって認められているようなものなのだけど、……きっとわかっていないのでしょうね。
こんな連中ばっかりが入って来る様になったから弱くなっちゃったんだろうなぁ、うちの学校の野球部は……。
「そう。……それで、私に話って、なんなのかしら?」
一応わかっていますけど、形式として聞いておく。
「あぁ、滝本……」
タメなんか作って、雰囲気を出してるつもりなんでしょうけど、様になっていませんよ。
云われる側からすれば、さっさと云うこと云ってもらいたいものなのだけどね。
ま、それくらいのこともわからないから、そういう小細工しているんだろうけど。
「俺と、付き合ってくれないか?」
やらせてくれないか? やらせて欲しい。いや、やらせろ! でしょ、本音は。
さっきから視線が胸やら脚やら腰周りにチョロチョロと向いてるの、バレバレなんですけど。
普通、告白とかだと相手の顔とか眼を見てるものじゃありませんかねぇ?
変な期待で膨らませているズボン前と併せて、それじゃ下心隠せてませんよ。
心の中で大きくタメ息を付き、思わずジト目になりそうなところも我慢して、なるだけ平静を保った顔つきで、彼がまたなにかバカげたことを云う前に、
「ごめんなさい。お断りします」
軽く頭を下げて、極めて事務的に返事をする。
"地味目から見栄えの良くなったひと夏の経験済み女なんて、声かけりゃ簡単に股を開くだろ" 、なんて思っていたんでしょうけど、お生憎さま。
私、そんなに安い女じゃありません。
「えっ?」
大倉くん、何か当てが外れたって顔してるけど、そもそも、その前提から間違えていることをわかりなさいよ。
それ以前に、あなたの前に二人も断られていることを知らないわけでもないでしょうに。
それとも、自分なら受けてもらえると思ってたとか?
――ハッ。どこからそんな自信が湧き出てきたのやら。
「話はそれだけ? ならこれで失礼するわ」
そう云って、踵を返して階段を下りていく私の背に大倉くんの声がかかる。
「ちょっ、ちょっと待って」
あー、みっともない。
いい男ぶるのなら、フラれたときもスマートでいなさいよ。
「も、もしかして、もう決まった相手とか、居んのか?」
断られることも考えていなかったのか、妙に焦った声音でそう聞いてくるけれど、それをあなたに教える必要ある?
――そう思ったりしたけれど、禍根を断つ必要はあるし、釘刺す意味でも答えておこう。
ゆっくりと振り返り、気持ちをたっぷりとこめ、"彼" のことを思うと自然にこぼれてくる笑顔に恥じらいをちょっぴり加えて、私は宣言する
「――ええ、いるわ。心から大好きな人が」
県立大道商業高等学校。
それが私の通っている学校だ。
駅を中心にしたこの街の高校分布で西に当たることから "西校" と呼ばれることもあるが、商業と称されることの方が多い。
もっとも、昔は本当に大道西高校だったこともあるそうなので、その呼ばれ方も間違いではないみたい。
総生徒数は五百人と少し。商業科、ビジネス学科、情報管理科の三つがあり、どの科も女子が多いのが特徴だ。
対比が一番大きいのは商業科で三対一。ビジネスで三対二、情報管理は学年で逆転しているところもあるが五対四といった感じ。勿論、大きい方が女子の値。
市の立てた昔の造成計画で広い埋立地が作られたとき、最初に建てられた施設だからなのか、敷地が大きく校庭もかなり広い。
野球のグラウンドがたっぷり二面取れて、その上でサッカーフィールドもフルサイズで一面取れるほど。
さらにその脇にバスケットコートやらテニスコートが二面ずつあったりして、体育館、プールも勿論別だ。
そこに校舎が二つ、別棟一つあるのだから、どれほどの広さかわかってもらえると思う。
そんな環境だからかスポーツに力を入れてた過去もあり、特に野球は数十年前は甲子園に何度も出ていた時期がある。
プロにも何人か輩出したこともあり、名門校だったのだ。
もっとも、今では県大会で準々決勝に残れば良い方で、かつての古豪呼ばわりされる体たらくである。
それでも、今でもなぜか野球やるなら商業で、と云う輩が多く、毎年野球するために受験するものが後を絶たないそうだ。
学区内だけならまだしも、学区外からの越境組までいると云うのだから、その誤った信仰の深さにうんざりする。
学区内一の進学校である北校の方が今では強いのにどうしてなんだか……あ、北校行ける学力が無いからこっちへ来るのか、納得だ。
とまぁ、そんな学校の野球部だから、大倉くんも妙な自信持ってナンパ仕掛けてくるわけで。
大倉くんの前の二人もそれぞれ運動系の部活やってる人だったっけ。
スポーツやってる男がモテるなんてふざけた伝統が今でも深く残っているらしい。
ちなみに我が校、現在のところ、どのスポーツも他校に勝ったものがありません。
やれやれだわ。
そんな風に学校のこととそのダメダメな運動部のことを思いながら階段を下り、自分の教室へと歩みを進めている途中、第二校舎との渡り廊下の接合部の脇に設置してある姿見に映った自分の姿を見る。
ゆったりとしたサマーベストをそれでも押し上げ、形を誇る二つの膨らみ。
スカートの張りから知れる腰からの豊かなライン。
学校指定タイツに包まれた程よく締まった脚。
大倉くんが舐める様に見ていたのもわかる、自分でも良く出来た身体だと思う。
中学のときからゆっくりと時間をかけ、この夏休みで最後の磨きをかけたのだから、それなりの賛辞は欲しいところよね。
――もっとも本当に認めてもらいたいのはあの人だけだけど。
背中の真ん中辺りまで流れる黒髪、前髪は左からほぼ七三で分けてある。左側のヘアピンがアクセント。
柳眉に瞳の少し大きめのツリ眼。それに細身のメガネを合わせてる。
二番目にナンパしてきた人が訳知り顔で "メガネなんて似合わない、コンタクトにすればもっと綺麗だぜ" なんて云ってきたが、冗談じゃない。
メガネをかけた上で綺麗であることが私のプライド。
だって、あの人は "メガネっ娘" が好きなのだから。
それを知ったときは嬉しかった。
眼が悪くて、メガネをかけていて、コンタクトにしてなくて良かったと思ったものだ。
今でこそこんな風だけど、一学期の間はひたすら身体のラインを隠すために大きめのサイズを着たり、髪型も大人しめにして、メガネもワザとレンズが大きく光の加減で顔を隠せるものを選んでかけていたほどだった。
徹底的に自分の存在を隠す方向でやってきた。
理由は勿論、他の男からの視線や興味をかわすため。
私のこの身はあの人のためにあるのだから。
――二学期になって、それを辞めたのは、必要が無くなったから。
「お帰りなさい。どうだった大倉くんは?」
もう誰も残っていないと思った教室に戻ってみれば、さも当たり前といった感じで待ち構えていた女子ひとり。
「と、聞くだけ野暮かしら? あなたの答えは決まっているものね」
そう小さく笑いながら話すのは同窓生で現クラスメート、そしてなぜか私の恋路を応援してくれている奇特な人、石嶺紗江さん。
「……石嶺さん、クラブは?」
石嶺さんのことは特に気にしないで自分の席まで行き、帰り支度を始めながらそんなことを聞いてみる。
「元から熱心ではない部員の一人や二人、出ていなくても特に問題にされることは無いわ」
彼女は既に帰り支度を終えているが、私を急かすでもなく、自然体で自分の所属する部にひどいことを云っている。
「それに、毎日出なさい、なんて決まりはないのだし、気にすることもない」
そんな言葉を受けて、帰り支度の済んだ私が教室を出るべく動き出すと、石嶺さんも一緒に進みだす。
「運動系は毎日するものだと思っていたけれど、そうでもないのね」
並んで歩きながらの私の素朴な疑問に、
「強豪校ならばそれもありでしょうけれど、うち程度でそんなことやるなんて、ただ笑い話ね」
多少自虐的に笑みを含みながらそう答えてくる石嶺さんである。
「だとしたら、あの無駄に広いグラウンドは宝の持ち腐れかな?」
その自虐的な笑みに誘われ、私も苦笑しつつそう云ってみる。
「そうでもないわ。楽しんでやる分には十分活かせる広さよ」
今度は自虐も皮肉もない、素直な微笑みで言葉を投げる石嶺さん。
その視線の先には、楽しそうにラリーを続けているテニス部の姿が在った。
「みたいね」
「でしょう?」
そう云い合って、二人して軽く笑いながら階段を下り、玄関ホールへ。
上履きを履き替えて校舎を出る。
こんな風に二人して下校するのも、当たり前になってきていた。
初めて二人で並んで帰ったのはいつだったか。
正門を抜け、左へ曲がり百メートルほど進んだ先の幹線道路の交差点で信号待ちしている間に、ふと浮かんだことを口にしてみる。
「いつからかしらね、こうして石嶺さんと帰るようになったのって?」
私のその言葉に石嶺さんは即反応して、
「私があなたの恋心を云い当てたあの日からね」
と、昨日のことのように云ってくる。
「正確に云えば、一学期の四月の終わり。ゴールデンウィークに入る前」
ドヤ顔をこちらに向け、誇らしそうに、私を見てる。
「あぁ、そうだったそうだった。それまでロクに会話もしてなかったのにいきなり指摘されたんだっけ」
そのときのことを思い出して苦笑しながら答える私。
四月の終わり、黄金週間に入ろうというとき、私たち以外誰も残っていない教室で、石嶺さんは突然私に向かって、
「滝本さん、あなた信濃寛くんのことを好きなのよね? いつ行動に移すのかしら?」
そう、云い放ったのだった。
誰にも云っていない、気づかれていない筈の隠してきた想いを、さほど親交があったといえない相手から、突然指摘されたのだ。驚かない筈がない。
「えっ、え? ど、どうして石嶺さんがそのことを?」
動揺し、顔を青くしながら私がやっと出した言葉に、
「ずっと知ってたわ。中学のときから。あなたの想いも、あなたのしてきた努力も」
からかうでもない、真摯な態度で石嶺さんは静かにそう返した。
「ちゅ、中学のときからって……」
何度か同じクラスになったことはあったけど、親しくはしていなかった。だのに、私のしてきた努力まで知っているなんて――
「あなたがしていることを不思議に思った、そこから気になりだしたの。そしてあなたの視線が誰を見詰めているのか、それが判ったとき、その謎めいた行いが何のためなのかも解ったわ」
少し優しい眼差しになって言葉を続ける石嶺さん。
「信濃くんのため。信濃くんの好みになるための努力。ガリガリと云ってよかったあなたが少しずつ太りはじめた後、新月くんが他の男子と雑談しているときに何気無しに聞こえたわ、信濃くんはふくよかな娘がタイプなんだと。あなたはそれをいつかしら知って、実行していたのね」
そう。偶然耳にしたその言葉で私は女性的な体型になることを目指した。
一度しっかり太って、それから残すところは残して、要らないところを減らす。
具体的に云えば、豊かな胸や腰周りは維持したまま、ある程度の括れをしっかり作ることだ。
元がガリガリの上に体質的に太りにくかったので、それこそお相撲さん張りにカロリーを摂ったりしたものだった。
太り易い人たちからすればひどい話だよね。
それこそ坪能さん辺りが聞いたら、なんて云われることやら。
でも、その坪能さんこそが、その当時の私の目標。
彼女に負けない身体にならなければ、彼女に並ばなければ、勝てない。
彼女も信濃くんのことを好いていることを、私は知っていた。
同じ人を好きになった者として、判っていた。
そんな風に、直接ではなくとも、間接的に、それこそ新月くんや木村くん、もしくは彼らの後見人と称してた水上さん辺りの口から聞こえてくる信濃くんの情報をどんなことでもいいから知ろうとしていた。
そして聞いて得た事柄はどんな小さなことでも活かそうとしてた。
彼のために、彼の好みの女の子になるために。
体型や見た目だけが彼の好みになったところで、それは一過性なこと。
彼と付き合うには、彼と無理なく自然に会話できるだけの知識が必要になる。
信濃くん、というか、彼のグループは皆博識で、その情報量と及ぶ範囲は生半可なものじゃなかった。
特に偏った知識に関してはものすごくて、そして、その偏った知識こそが彼らの真骨頂とも云うべきもので、私はそれをネットや書籍なんかの使える可能な手段を用いて集め、吸収していった。
中学生生活も終わろうかという頃になって、彼の最終的な好みはエッチな身体つきをしたいろんな意味での優等生タイプだとわかった。
坪能さんとは違う。私は歓喜した。その当時の私はその条件にそのものズバリだったから。
――そして、その条件は水上さんに当てはまることだと知れた。
信濃くんは水上さんのことを好きなのか。
小学生のときから、あの三人と親しく、一番近い存在だった彼女。そんな彼女が相手になったら、勝てる訳なんて無い。
そのときの絶望感と云ったら、それこそ明日にでも世界が終わるような気持ちだった。
焦燥感に突き動かされ、三年生の三学期。私は信濃くんに恋して初めて直接的な行動をとる。
水上さんに信濃くんをどう思っているのかを問うたのだった。
彼女を呼び出し、二人っきりになってストレートに聞いた。
「み、水上さんは、信濃くんのこと、男の人として、好き、なの?」
切羽詰ったような私の問いかけに、彼女は少し驚いてから、そして困ったような顔をして、
「――好きか嫌いかの二択しかないなら、好きって答えるよ。けど、彼氏にしたいとか、そんな風には思わない、思わないようにしてる。……そんな関係になったら、あたしたち上手く行かなくなるの、目に見えてるから」
と、苦笑いしながら云い、続けて、
「寛ちゃんだけじゃなくて、新さんでもキムでも同じね。あたしはあの三人のこと、まとめて好きなんだ。誰か一人は選べないし、選ぼうとも思わない。仮に選んでもさっき云ったみたいに最低最悪の結果になると思うし……」
そう云いながら、どこか哀しげな顔をして、
「あたしたちは似すぎてて、そして近すぎてるの。だから今の距離から踏み込めないんだ。居心地良い、今の関係が壊れるのが怖くてね」
だから、男女の垣根無しの一番親しい友人でいるのだと。
「あたし、男に生まれたかったなー、そしたらあいつらとずうっと一緒にバカやれるのにね」
伸びをしながら、そんなことを云う彼女は、なぜか儚く見えた。
「滝本さんは寛ちゃんのこと好きなんだ? ならあたしのことなんて気にしないで頑張ってね」
別れ際にそう私を励まして、彼女は去っていった。
勝てないと思った。でも、諦めたくはない。
勝てないのなら、負けなければいい。彼女に並べば良いだけ。
目標がハッキリした。
水上直、あの人に一番近い女の子。彼女に負けないくらいの女になる!
でも、その水上さんはご両親の仕事の都合で、中学を卒業した後この街を去って行った。
だからあのとき、自分が居なくなることがわかっていたから、私に頑張れと云ったのだろう。
「あなたにとって最大の障壁だった水上さんがいなくなったから、すぐにでも動き出すのかと思えば、全然そんなことないんですもの。つい発破もかけたくもなるわ」
青信号になり、道路を渡りながら石嶺さんが愚痴っぽく云う。
「そう云われてもねぇ。……逆なのよ。彼女がいなくなって、どうすればいいのかわからなくなってたの。乗り越えるべき目標がいきなり消えたのよ、気持ちの持って行き場を探して、そのまま迷っちゃったって訳」
苦笑しながらそう答えたら、
「――そんなこと云ってたから出遅れて、トンビにアブラゲ攫われる破目になったのよ」
少しだけきつい口調になった石嶺さんに返される。
「骨折ってくれたのに、その件に関しては、本当申し訳ないわ」
力なく云う私に、
「私はいいのよ、所詮は傍観者だから。でもあなたは違うでしょ? 七年越しの想いも、今までしてきた努力も全てが無駄になるなんて……」
石嶺さんの静かな怒りは私のため。
冷めた振りして優しいんだから、この人は。
そうか、もう七年になるのか――
私、滝本千代美が信濃くんに想いを寄せてから――
私と信濃くん、二人の唇が重なった、あの偶然から――
次回、過去回想編。