登山、
「お誕生日おめでとう、あなた。」
「ああ……そういえば、今日はそうだったね。」
実をいうと、俺はこのとき、自分の誕生日を覚えていた。だからだろうか、少し演技がかった言い方になってしまったかもしれない。
「はい、誕生日プレゼント。」
妻は、細長いケースに入ったそれを、俺に差し出した。なんだか、久しぶりに、無邪気に笑う妻を見た気がする。
「フフ、久しぶりだな。君が俺に誕生日プレゼントだなんて。」
実は、俺は気づいていた。妻が俺に内緒で、何かの準備をしていたことに。
長いこと夫婦をやっていると、そうした勘が鈍くなると思っていたが、俺たちはどうやら世間とあまのじゃくのようだ。
「開けてみて。」
「ん……。」
濃いグレーのケースを開けると、そこにはステッキのようなものが2本入っていた。スキーで使うような、スポーティーなデザインのものだった。
「これは?」
「登山用のステッキよ。」
怪訝な顔を浮かべる俺に、彼女はにこりと笑って応えた。
「登山?」
「ええ。登山。」
「ハハ。山に登りたいの?」
「ええ。あなたと一緒に。……退院したら行きましょ?」
「ハハ……まいったな。」
俺は少し困った顔をしてみせた。
「あなた、最近、運動不足だと思って、わたし、考えたのよ。」
「んー……たしかに、運動不足には違いないけど……登山ときたか…。」
俺は先月、バイク事故で左腕を失ったばかりだった。
ちょうど、左の肘から先がない。
命があっただけでも、もうけ物と思わなければならないのだろうが、やはり、当時はかなりのショックを受けた。
泣き腫らす夜を、しばらく過ごした。
妻に「二度と来るな」と、怒鳴ったりもした。
幻肢痛にも苛まれた。ない方の手が、つぶされるように痛む症状である。
このときは、ミラーセラピーなどという気休めの治療を受けたりもしたが、俺にはあまり効果がなかった。
しかし、今はずいぶんと落ち着いてきている。3日後には退院する予定もたった。
今までは、仕事にのまれ、夫婦の時間などほとんど無いに等しかったわけだが、意図せずして過ごした夫婦水入らずのこの一月は、改めて妻の大切さを感じる日々となった。
本当に、献身的に、妻は俺を支えてくれた。
だから俺は、この登山の誘いをどうすべきか、少し悩んだ。
どちらかというと、やはり行くような気分にはなれなかったからだ。
妻には感謝しているが、まだ登山に出かけられるほど、前向きなエネルギーは湧いてこない。
「んー…、これはありがたいお誘いだけど……。」
すると妻は、そんな俺の不穏な態度を察してか、カーテンの揺れる窓辺を眺めながらチクチクと言い出し始めた。
「あーあ、わたし、二度と来るな、って怒鳴られたとき、本当にショックだったわ。」
妻の、いいジャブが入った。
「……まあ、あのときは……本当に、悪かったよ。」
「本当にそう思ってます?わたし、次の日わざわざ、パーティーの衣装を着て、偶然を装ってまで、この病院に来たのよ。ほんと、死ぬほど恥ずかしかったんだから。」
俺の「二度と来るな」、に対して「偶然来てしまった」なら許されると思ったのだろう。彼女の変な計らいだった。
「ハハ、そういえばそうだったね。でも、あの帽子は面白かったよ。極彩色の鳥の羽をセロハンテープでくっ付けてきて。今どき、コントでも使わないような代物だったね。」
「百均で調達したにしては、いいできだったじゃないかしら?」
「確かにね。ハハハハ。」
話をはぐらかそうとした意図がばれたのか、妻はすかさず次のジャブを打ってきた。
「あーあ、あなたがよく、左手が痛い〜、なんて言ってたとき、わたし、素敵な妻として、ずーっと右手を握っててあげてたのになあ。」
「いやいや、よく言うよ。左手の痛みが分からなくなるぐらいに、右手に激痛が走ったね。爪は食い込むわ、青あざはできるわで……いつの間にあんな怪力を身につけたんだい?」
「あら、失礼しちゃう。」
妻はわざとらしく俺に背中を向けた。
「登山に行くって言うまで、私、帰りませんから。」
妻の右ストレートだった。
これを言われると、俺は首を縦に振らざるをえない。
以前にも同じようなことがあったのだ。
あれは確か、妻の友人の結婚式に、俺が行かないと言ったときのことだった。あのときの妻は、本当に頑固だった。
何を思ったのか、トイレに篭城し始めて、一向に出てこなかったのである。結局、まる一日トイレに閉じこもり、俺はトイレに行くだけのために、近くのコンビニまで行かなければならなくなった。そして、結婚式にも、結局行くはめになって、さんざんな思いをした。
幸いにして、俺の両脚は健在である。
俺は諦めるように妻に言った。
「……退院したら、行きましょうか。……山。」
妻はにんまりとした笑顔で振り返ると、意地の悪いピースサインを向けてきたのであった。
久々に、少しだけ、妻が愛おしく思えた。
驚くべきことに、俺は退院して半月も経たないうちに、登山をすることになった。
妻が、愛のムチと称して、俺をジム通いさせた賜物である。俺の体力はみるみると回復していった。
ちなみに妻も、俺の隣でエアロバイクをこいでいた。
体力づくりもさることながら、妻は登山道具を揃えることに関しても、凄まじいほど燃えていた。
何が彼女をそうさせるのか、少し不思議なぐらいだったが、レジャー関連の雑誌に目を輝かせる妻を見ていると、こんな応えが返ってきそうでおかしかった。
「そこに、山があるからよ。」
案の定、そうだった。
しかし、振り返ってみれば、俺たちは結婚してからというもの、思い出らしい思い出を一つも作ってこなかったかもしれない。
そもそも、結婚式すらあげていない。
だからだと思う。妻が急かすように、俺を登山に誘ってきたのは。
俺と結婚しているんだ、という何かが欲しかったのかもしれない。俺は努めて、仕事人間だったから。
そんなことを思うと、少しだけ罪悪感を覚えた。
俺たちはロープウェイを経由して、登山道の途中から山頂を目指す、初心者向けコースを歩くことにした。
というか、そうお願いした。
妻は、「ふもとから登ってやりたいわ。」と熟練者向けのコースににらみをきかせていたわけだが、さすがに無理だと説得し、往復5時間の初心者コースで手を打ってもらったのである。
あのときの妻の眼は、なんだか異様に怖かった。実は俺を、登山で殺そうとしているのではないか、と思えるほどだった。
しかし、登山がいざ始まると、彼女の殺気の意味が分かった。
どうしても、ふもとから登りたかった理由。それは……
「高所恐怖症」だった。
妻は、揺れるゴンドラに脚を震わせ、俺の右腕にしがみついてきたのである。まるで、おびえる小猿だった。
「……ふもとから登りたかったのは、こういう理由?」
余裕を浮かべる俺にやや不機嫌な顔をして、妻は反論した。
「べ、べつに、高所恐怖症というわけでは、ないですけれども。」
「ふーん。」
「あ、あなたが、少し怖そうだったから、しっかりとつかんであげてる、わけですけれども。」
「……ふーん。」
「なによ……。」
「………ふーん。……うんしょと。」
俺は座り直すために、少しだけ腰を浮かす仕草をした。案の定、ゴンドラはわずかに揺れた。
「キャー!!っちょっと、危ないんですけれども!」
「ハハハ。別に危なくないんですけれども?」
隣の小猿は予想通りの反応をし、そして、それ以降、無口になってしまった。
なお、俺の右腕がより一層不自由になったことは、言うまでもない。
ゴンドラを降りてすぐ、俺は一応妻に謝った。
「どうもごめんなさい。少しからかいすぎました。」
すると妻は、俺のことを一睨みして、
「帰りも、右腕貸してくれたら、許してあげる。」
と言った。
「はい。喜んで。」
俺はこのとき、心底、右腕に感謝した。
そして、妻にも少し、感謝した。小さな声で、「ありがとう……」と。
妻はまったく、気づいていなかったが。
登り始めて30分。
登山は予想外にも、熾烈を極めた。
初心者コースといえども、決して侮ってはいけなかったのである。
俺たちのイメージはこうだった。
自然の中を散策し、きれいな花やへんな虫を見つけては、その都度リアクションを楽しむ。
途中、休憩をはさんで、持ち寄ったサンドイッチやお菓子を広げて、お茶を楽しむ。
完全に甘かった。
序盤こそ会話があったものの、中盤から頂上までは、ほとんどお互い口を開かなかったと思う。ただひたすらに、代わり映えしないごつごつとした登山道を、黙々と進むだけだった。
時々立ち止まっては頂上を見上げ、また歩いては立ち止まり、あまり近づかない頂上にため息をついた。
死んだ木に彫られた、「山頂まであと 300m」と、「山頂まであと200m」の間隔が、果てしもなく長いものに感じられた。
そして、そのあたりからの景色が、俺たちをより心細くさせた。
黒くごろごろとした石だけの、殺風景な世界。吹き付ける強く冷たい風。下を流れる早い雲。自然の驚異が、そこにはあった。
俺たちは低い風音の中、お互いの息づかいを頼りに、一歩ずつ山上を目指した。
「歩く」という作業に限界を感じ始めた頃、俺たちはとうとう、ボロボロの目的地に到達した。
『——山・山頂』。
そう刻字された丸太は、太くたくましく、地面に突き刺さっていて、思いのほか、あっけなかった。
「……着きましたね。」
「……着きましたな。」
「……」
「……」
それ以上の言葉は、出てこなかった。
しかし、とりあえず、俺たちは写真を撮った。このボロボロの『山頂』をバックに。
確認した写真の俺たちが、想像以上にブサイクで、あまりにも快活な笑顔だったことは、言うまでもない。
俺たちは、下山を始めてから、少しずつ言葉を取り戻していった。
ちなみに、第一声は「コンドロイチン。」
膝をいたわる、優しい言葉だった。
「コンド・ロイ・チン、コンド・ロイ・チン。」
そのうち、こんなかけ声を作っては、すれ違う他の登山者と微妙な空気になり、俺たちも照れ臭く笑うのだった。
そして、とうとう、俺たちはロープウェイの乗り場に帰ってきた。
ガタゴトとまわるゴンドラに乗り込むと、早速、妻は約束どおり、俺の右腕にもたれかかってきた。
しかし、少し具合が違った。
不自然なことに、妻の腕からは、あのビクビクとした恐怖がまったく伝わってこなかったのである。
まるで水のようにしっとりと、力なく腕をからませ、俺の肩に頭をあずけてくるのであった。
「どうした?……へばったのか?」
「……ううん。」
「……フフ。いい景色だよ。かなり高いけど。」
「………うん。」
「ハハ、見てないのに、うん、はないんじゃない。」
「…………うん。」
「………………どうした?…………具合、悪いのか?」
「……………………うん。」
「そうか……今日は初めての登山だっかたらな。俺もそうだけど、きっと疲れたんだろう。」
「……………………うん。」
「家に帰ったら、ゆっくり休もう。」
「…………うん。」
妻の、鼻ををすする音が聞こえた。
泣いているのに気づいたのは、妻の肩がわずかに震えているのを、見つけてからだった。
俺は、無い方の腕をそっと伸ばしてみたが、妻の頭まで上手く届かなくて、諦めた。
少しだけ、悔しかった。
腕の無い自分が。
登山の日から2日後、俺たちは病院に向かった。
俺の身体のことじゃなく、妻の身体のことで。
彼女は俺に隠していた。
癌を。
俺は、医者を殴った。そして、妻を泣かせた。
何度も何度も、俺はいろんな「ごめん」を言ったが、妻はなかなか、泣き止んでくれなかった。
俺はそれから、自分を責める日を一日作って、妻を笑顔にする時間を一月作った。
程なく旅立つ、妻のために。
妻が、俺にそうしてくれたように。
俺は、一生分の愛を妻に注いだ。
妻のわがままを、必死になって聞き出して、それを叶えて、笑ってもらって。
努めて明るく、ふざけてみせたり、笑ってみせたり。
柄にもないことを、たくさんした。
そのときが近づいてからは、病院のイスに寝泊まりまでして。
嗚呼、去り際の妻は、とてもきれいだった。
少し痩せてはいたが、俺の妻は、愛する妻は、ひとつ寝言をつぶやいて、安らかに天国へと旅立っていったのである。
「とざん……」
「……また、行こうな。」
「………。」
俺はこのとき初めて、最愛を知った。
後日、枕シーツの内側から、一通の手紙が見つかった。
妻から俺宛の、初めての手紙だった。
〜あなたへ〜
お元気ですか?
あなたは、きっと、寂しいでしょうね。だって、わたしがすっごく、寂しいから。理由になってないかしら?
でも、あなた、意外と優しいから。きっと、泣いてるでしょうね。
でもね。笑って。
天国にいる私は、今ごろ、きっと楽しく過ごしていると思うから。だって、天国にいる人たち、みんないい人ばかりだもの。
だから、あなたも、ちゃんと天国に上がってきてね。悪いこと、しちゃダメよ。
でも、もし、どうしても寂しくて、悪いことしそうになったときは、あの山を登ってきてね。
お茶でもいれて、待っててあげるから。
だけど、冬は来ちゃだめよ。あそこは寒くて、わたし、待ってられないから。あと、少し、危ないから。
あなたには、謝らないといけないわね。
ごめんなさい。
病気のこと黙ってて。
でもね。言おうとしたのよ。そしたら、その日にあなたが、バイク事故なんて起こすから、すっかりタイミングをなくしちゃったの。
だから、お互い様ってことで、許してください。
それと、あなた、ありがとう。
ウェディングドレス、嬉しかったわ。
きっと、恥ずかしかったでしょうね。真っ白いタキシードで病院にくること。
でも、あなたがしてくれた、最初のサプライズにしては上出来よ。
ありがとう。
あと、あなたと行った登山、すっごく楽しかったわ。
また一緒に行きたいです。あなたの買ってくれた、登山帽をかぶって。
そうだ。あの登山のときの、帰りのゴンドラの中で、わたしの頭なでてくれたでしょ。わたし、分かったわ。なんだか少し、温かかったから。
ありがとう。あなた。
あーあ。いっぱい書きたいことがありすぎて、便せんが足りないみたい。(天国の郵便局はケチなの。だから一通で許してね。)
あなたがこっちにきたら、たくさんお話しましょう。
あと……浮気は許すわ。孤独死なんてしちゃダメよ。
それと……あのときね。
あの山を登り始めたとき、
あなた「ありがとう」って言ってくれたわよね。
ちゃんと聞こえてたのよ。
ちょっと照れくさくて、振り向けなかったけど。
でも、あなた。
「ありがとう」って言ってくれて、ありがとう。
世界で一番、愛してるわ。
〜妻より。
俺はその場に、泣き崩れた。
しばらくの間、動けなかった。
それから毎年、この山に、片腕の登山者が現れるようになったことは、言うまでもない。