表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

登山、

作者: 大戸 鷹

「お誕生日おめでとう、あなた。」

「ああ……そういえば、今日はそうだったね。」

実をいうと、俺はこのとき、自分の誕生日を覚えていた。だからだろうか、少し演技がかった言い方になってしまったかもしれない。

「はい、誕生日プレゼント。」

妻は、細長いケースに入ったそれを、俺に差し出した。なんだか、久しぶりに、無邪気に笑う妻を見た気がする。

「フフ、久しぶりだな。君が俺に誕生日プレゼントだなんて。」

実は、俺は気づいていた。妻が俺に内緒で、何かの準備をしていたことに。

長いこと夫婦をやっていると、そうした勘が鈍くなると思っていたが、俺たちはどうやら世間とあまのじゃくのようだ。

「開けてみて。」

「ん……。」

濃いグレーのケースを開けると、そこにはステッキのようなものが2本入っていた。スキーで使うような、スポーティーなデザインのものだった。

「これは?」

「登山用のステッキよ。」

怪訝な顔を浮かべる俺に、彼女はにこりと笑って応えた。

「登山?」

「ええ。登山。」

「ハハ。山に登りたいの?」

「ええ。あなたと一緒に。……退院したら行きましょ?」

「ハハ……まいったな。」

俺は少し困った顔をしてみせた。

「あなた、最近、運動不足だと思って、わたし、考えたのよ。」

「んー……たしかに、運動不足には違いないけど……登山ときたか…。」


俺は先月、バイク事故で左腕を失ったばかりだった。


ちょうど、左の肘から先がない。

命があっただけでも、もうけ物と思わなければならないのだろうが、やはり、当時はかなりのショックを受けた。

泣き腫らす夜を、しばらく過ごした。


妻に「二度と来るな」と、怒鳴ったりもした。


幻肢痛にも苛まれた。ない方の手が、つぶされるように痛む症状である。

このときは、ミラーセラピーなどという気休めの治療を受けたりもしたが、俺にはあまり効果がなかった。


しかし、今はずいぶんと落ち着いてきている。3日後には退院する予定もたった。


今までは、仕事にのまれ、夫婦の時間などほとんど無いに等しかったわけだが、意図せずして過ごした夫婦水入らずのこの一月(ひとつき)は、改めて妻の大切さを感じる日々となった。

本当に、献身的に、妻は俺を支えてくれた。


だから俺は、この登山の誘いをどうすべきか、少し悩んだ。

どちらかというと、やはり行くような気分にはなれなかったからだ。

妻には感謝しているが、まだ登山に出かけられるほど、前向きなエネルギーは湧いてこない。

「んー…、これはありがたいお誘いだけど……。」

すると妻は、そんな俺の不穏な態度を察してか、カーテンの揺れる窓辺を眺めながらチクチクと言い出し始めた。

「あーあ、わたし、二度と来るな、って怒鳴られたとき、本当にショックだったわ。」

妻の、いいジャブが入った。

「……まあ、あのときは……本当に、悪かったよ。」

「本当にそう思ってます?わたし、次の日わざわざ、パーティーの衣装を着て、偶然を装ってまで、この病院に来たのよ。ほんと、死ぬほど恥ずかしかったんだから。」

俺の「二度と来るな」、に対して「偶然来てしまった」なら許されると思ったのだろう。彼女の変な計らいだった。

「ハハ、そういえばそうだったね。でも、あの帽子は面白かったよ。極彩色の鳥の羽をセロハンテープでくっ付けてきて。今どき、コントでも使わないような代物だったね。」

「百均で調達したにしては、いいできだったじゃないかしら?」

「確かにね。ハハハハ。」

話をはぐらかそうとした意図がばれたのか、妻はすかさず次のジャブを打ってきた。

「あーあ、あなたがよく、左手が痛い〜、なんて言ってたとき、わたし、素敵な妻として、ずーっと右手を握っててあげてたのになあ。」

「いやいや、よく言うよ。左手の痛みが分からなくなるぐらいに、右手に激痛が走ったね。爪は食い込むわ、青あざはできるわで……いつの間にあんな怪力を身につけたんだい?」

「あら、失礼しちゃう。」

妻はわざとらしく俺に背中を向けた。

「登山に行くって言うまで、私、帰りませんから。」

妻の右ストレートだった。

これを言われると、俺は首を縦に振らざるをえない。


以前にも同じようなことがあったのだ。


あれは確か、妻の友人の結婚式に、俺が行かないと言ったときのことだった。あのときの妻は、本当に頑固だった。

何を思ったのか、トイレに篭城し始めて、一向に出てこなかったのである。結局、まる一日トイレに閉じこもり、俺はトイレに行くだけのために、近くのコンビニまで行かなければならなくなった。そして、結婚式にも、結局行くはめになって、さんざんな思いをした。


幸いにして、俺の両脚は健在である。

俺は諦めるように妻に言った。

「……退院したら、行きましょうか。……山。」

妻はにんまりとした笑顔で振り返ると、意地の悪いピースサインを向けてきたのであった。

久々に、少しだけ、妻が愛おしく思えた。




驚くべきことに、俺は退院して半月も経たないうちに、登山をすることになった。

妻が、愛のムチと称して、俺をジム通いさせた賜物である。俺の体力はみるみると回復していった。

ちなみに妻も、俺の隣でエアロバイクをこいでいた。


体力づくりもさることながら、妻は登山道具を揃えることに関しても、凄まじいほど燃えていた。

何が彼女をそうさせるのか、少し不思議なぐらいだったが、レジャー関連の雑誌に目を輝かせる妻を見ていると、こんな応えが返ってきそうでおかしかった。

「そこに、山があるからよ。」


案の定、そうだった。


しかし、振り返ってみれば、俺たちは結婚してからというもの、思い出らしい思い出を一つも作ってこなかったかもしれない。

そもそも、結婚式すらあげていない。

だからだと思う。妻が急かすように、俺を登山に誘ってきたのは。

俺と結婚しているんだ、という何かが欲しかったのかもしれない。俺は努めて、仕事人間だったから。

そんなことを思うと、少しだけ罪悪感を覚えた。



俺たちはロープウェイを経由して、登山道の途中から山頂を目指す、初心者向けコースを歩くことにした。

というか、そうお願いした。

妻は、「ふもとから登ってやりたいわ。」と熟練者向けのコースににらみをきかせていたわけだが、さすがに無理だと説得し、往復5時間の初心者コースで手を打ってもらったのである。

あのときの妻の眼は、なんだか異様に怖かった。実は俺を、登山で殺そうとしているのではないか、と思えるほどだった。


しかし、登山がいざ始まると、彼女の殺気の意味が分かった。

どうしても、ふもとから登りたかった理由。それは……


「高所恐怖症」だった。


妻は、揺れるゴンドラに脚を震わせ、俺の右腕にしがみついてきたのである。まるで、おびえる小猿だった。

「……ふもとから登りたかったのは、こういう理由?」

余裕を浮かべる俺にやや不機嫌な顔をして、妻は反論した。

「べ、べつに、高所恐怖症というわけでは、ないですけれども。」

「ふーん。」

「あ、あなたが、少し怖そうだったから、しっかりとつかんであげてる、わけですけれども。」

「……ふーん。」

「なによ……。」

「………ふーん。……うんしょと。」

俺は座り直すために、少しだけ腰を浮かす仕草をした。案の定、ゴンドラはわずかに揺れた。

「キャー!!っちょっと、危ないんですけれども!」

「ハハハ。別に危なくないんですけれども?」

隣の小猿は予想通りの反応をし、そして、それ以降、無口になってしまった。

なお、俺の右腕がより一層不自由になったことは、言うまでもない。




ゴンドラを降りてすぐ、俺は一応妻に謝った。

「どうもごめんなさい。少しからかいすぎました。」

すると妻は、俺のことを一睨みして、

「帰りも、右腕貸してくれたら、許してあげる。」

と言った。

「はい。喜んで。」

俺はこのとき、心底、右腕に感謝した。

そして、妻にも少し、感謝した。小さな声で、「ありがとう……」と。

妻はまったく、気づいていなかったが。



登り始めて30分。

登山は予想外にも、熾烈(しれつ)を極めた。

初心者コースといえども、決して侮ってはいけなかったのである。


俺たちのイメージはこうだった。

自然の中を散策し、きれいな花やへんな虫を見つけては、その都度リアクションを楽しむ。

途中、休憩をはさんで、持ち寄ったサンドイッチやお菓子を広げて、お茶を楽しむ。

完全に甘かった。

序盤こそ会話があったものの、中盤から頂上までは、ほとんどお互い口を開かなかったと思う。ただひたすらに、代わり映えしないごつごつとした登山道を、黙々と進むだけだった。

時々立ち止まっては頂上を見上げ、また歩いては立ち止まり、あまり近づかない頂上にため息をついた。

死んだ木に彫られた、「山頂まであと 300m」と、「山頂まであと200m」の間隔が、果てしもなく長いものに感じられた。

そして、そのあたりからの景色が、俺たちをより心細くさせた。

黒くごろごろとした石だけの、殺風景な世界。吹き付ける強く冷たい風。下を流れる早い雲。自然の驚異が、そこにはあった。

俺たちは低い風音の中、お互いの息づかいを頼りに、一歩ずつ山上を目指した。



「歩く」という作業に限界を感じ始めた頃、俺たちはとうとう、ボロボロの目的地に到達した。

『——山・山頂』。

そう刻字された丸太は、太くたくましく、地面に突き刺さっていて、思いのほか、あっけなかった。

「……着きましたね。」

「……着きましたな。」

「……」

「……」

それ以上の言葉は、出てこなかった。

しかし、とりあえず、俺たちは写真を撮った。このボロボロの『山頂』をバックに。

確認した写真の俺たちが、想像以上にブサイクで、あまりにも快活な笑顔だったことは、言うまでもない。



俺たちは、下山を始めてから、少しずつ言葉を取り戻していった。

ちなみに、第一声は「コンドロイチン。」

膝をいたわる、優しい言葉だった。

「コンド・ロイ・チン、コンド・ロイ・チン。」

そのうち、こんなかけ声を作っては、すれ違う他の登山者と微妙な空気になり、俺たちも照れ臭く笑うのだった。



そして、とうとう、俺たちはロープウェイの乗り場に帰ってきた。


ガタゴトとまわるゴンドラに乗り込むと、早速、妻は約束どおり、俺の右腕にもたれかかってきた。

しかし、少し具合が違った。

不自然なことに、妻の腕からは、あのビクビクとした恐怖がまったく伝わってこなかったのである。

まるで水のようにしっとりと、力なく腕をからませ、俺の肩に頭をあずけてくるのであった。

「どうした?……へばったのか?」

「……ううん。」

「……フフ。いい景色だよ。かなり高いけど。」

「………うん。」

「ハハ、見てないのに、うん、はないんじゃない。」

「…………うん。」

「………………どうした?…………具合、悪いのか?」

「……………………うん。」

「そうか……今日は初めての登山だっかたらな。俺もそうだけど、きっと疲れたんだろう。」

「……………………うん。」

「家に帰ったら、ゆっくり休もう。」

「…………うん。」

妻の、鼻ををすする音が聞こえた。


泣いているのに気づいたのは、妻の肩がわずかに震えているのを、見つけてからだった。

俺は、無い方の腕をそっと伸ばしてみたが、妻の頭まで上手く届かなくて、諦めた。

少しだけ、悔しかった。

腕の無い自分が。










登山の日から2日後、俺たちは病院に向かった。

俺の身体のことじゃなく、妻の身体のことで。



彼女は俺に隠していた。
















(がん)を。



俺は、医者を殴った。そして、妻を泣かせた。

何度も何度も、俺はいろんな「ごめん」を言ったが、妻はなかなか、泣き止んでくれなかった。


俺はそれから、自分を責める日を一日作って、妻を笑顔にする時間()一月(ひとつき)作った。

程なく旅立つ、妻のために。


妻が、俺にそうしてくれたように。



俺は、一生分の愛を妻に注いだ。


妻のわがままを、必死になって聞き出して、それを叶えて、笑ってもらって。


努めて明るく、ふざけてみせたり、笑ってみせたり。


柄にもないことを、たくさんした。


そのときが近づいてからは、病院のイスに寝泊まりまでして。





嗚呼、去り際の妻は、とてもきれいだった。

少し痩せてはいたが、俺の妻は、愛する妻は、ひとつ寝言をつぶやいて、安らかに天国へと旅立っていったのである。




「とざん……」


「……また、行こうな。」


「………。」




俺はこのとき初めて、最愛を知った。















後日、枕シーツの内側から、一通の手紙が見つかった。



妻から俺宛の、初めての手紙だった。



〜あなたへ〜


お元気ですか?

あなたは、きっと、寂しいでしょうね。だって、わたしがすっごく、寂しいから。理由になってないかしら?

でも、あなた、意外と優しいから。きっと、泣いてるでしょうね。


でもね。笑って。

天国にいる私は、今ごろ、きっと楽しく過ごしていると思うから。だって、天国にいる人たち、みんないい人ばかりだもの。

だから、あなたも、ちゃんと天国に上がってきてね。悪いこと、しちゃダメよ。


でも、もし、どうしても寂しくて、悪いことしそうになったときは、あの山を登ってきてね。

お茶でもいれて、待っててあげるから。

だけど、冬は来ちゃだめよ。あそこは寒くて、わたし、待ってられないから。あと、少し、危ないから。


あなたには、謝らないといけないわね。

ごめんなさい。

病気のこと黙ってて。

でもね。言おうとしたのよ。そしたら、その日にあなたが、バイク事故なんて起こすから、すっかりタイミングをなくしちゃったの。

だから、お互い様ってことで、許してください。


それと、あなた、ありがとう。

ウェディングドレス、嬉しかったわ。

きっと、恥ずかしかったでしょうね。真っ白いタキシードで病院にくること。

でも、あなたがしてくれた、最初のサプライズにしては上出来よ。

ありがとう。


あと、あなたと行った登山、すっごく楽しかったわ。

また一緒に行きたいです。あなたの買ってくれた、登山帽をかぶって。


そうだ。あの登山のときの、帰りのゴンドラの中で、わたしの頭なでてくれたでしょ。わたし、分かったわ。なんだか少し、温かかったから。

ありがとう。あなた。



あーあ。いっぱい書きたいことがありすぎて、便せんが足りないみたい。(天国の郵便局はケチなの。だから一通で許してね。)

あなたがこっちにきたら、たくさんお話しましょう。


あと……浮気は許すわ。孤独死なんてしちゃダメよ。


それと……あのときね。

あの山を登り始めたとき、

あなた「ありがとう」って言ってくれたわよね。

ちゃんと聞こえてたのよ。

ちょっと照れくさくて、振り向けなかったけど。


でも、あなた。

「ありがとう」って言ってくれて、ありがとう。


世界で一番、愛してるわ。


                                     〜妻より。




俺はその場に、泣き崩れた。

しばらくの間、動けなかった。






それから毎年、この山に、片腕の登山者が現れるようになったことは、言うまでもない。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ