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哲学エッセイ『なぜ人は幸せを説くのか』

 あるドキュメンタリー番組を観た。

 

 年商数百億円規模の企業を率いていた元ベンチャー社長が、ある日突然、頭を丸めてインドの修行僧となり、「幸せとはなにか」を説いている、という内容だった。

 

 私は、つい考えてしまう。

 

「この人は何を意図しているのだろうか」と。

 

 こうした話は往々にして、「幸せは当たり前の日常の中にある」と気づかせる結論へと収束する。

 

 だが、そこで一つの疑問が生まれる。

 

 なぜ赤の他人が、わざわざ他人にそれを“気づかせよう”とするのか。

 

 考えられる理由はいくつかある。

 

 第一に、純粋に他者を幸せにしたいという動機。

 

 第二に、自らの考えが正しいと認められたいという欲求。

 

 そして第三に、そうした価値観が結果として犯罪の抑止につながるという側面である。

 

 しかし、「幸せとはなにか」という問いが長く解決されていない以上、それは固定された一つの答えを持たないとも言える。

 

 もし幸せが個人ごとに異なるものであるなら、本来は各人がそれを静かに実践していればよいだけのはずだ。

 

 にもかかわらず、「幸せとは何か」と他人に説く行為は、見方によっては個人の思想を他者に押し付けることに等しい。

 

 たとえるなら、肉が好きでもない人間に対して、「肉好きこそが幸せなのだ」と説いているようなものだ。

 

 仮に発信者が「人を幸せにしたい」という善意を動機としていたとしても、その過程で他者を説得し、自分の考えへと導こうとする。

 

 それは結果的に、自らの主張の正当性を認めさせたいという欲求へとつながっていく。

 

 その価値観が他者に害を及ぼさないものであるならば、それが社会に広まり、人々が満足するようになれば、不満や嫉妬に起因する犯罪は減っていくのかもしれない。

 

 そうした意味では、一定の抑止力として機能する可能性もある。

 

 ここで共通しているのは、いずれの場合も「発信者」が存在するという点である。

 

 発信者がいるということは、そこに主張があるということだ。

 

 主張があるということは、何かを実現したいという目的、すなわち欲望が存在するということである。

 

 この構造を踏まえると、「幸せ」とは、何かを実現しようとする目的そのものでもある、と言えるのではないか。

 

 もし幸せが完全に個人の中で完結するものであるなら、本来それを他者に語る必要はない。

 

 しかし人は、自分の感じている幸せに疑問を抱いたとき、こう尋ねる。

 

「自分はこれを幸せだと思っているが、君はどう思うか」と。

 

 この時点で、その人はすでに他者に評価を求めている。

 

 すなわち、自分の幸せの基準を他人に委ねているのである。

 

 もし幸せが他者の評価によって決まるのだとすれば、多数決によって選ばれたものこそが「幸せ」となるはずだ。

 

 しかし現実には、人はそれでは納得しない。

 

 だからこそ、「幸せとはなにか」という問いは、いまだに解決されていない。

 

 おそらく、本当に自分なりの幸せを見つけた人間は、それを多く語らない。

 

 なぜならそれは、他人と共有するためのものではなく、自分自身に最適化されたものだからである。

【あとがき】

本稿は、特定の人物や価値観を批判するものではなく、「幸せを語る」という行為そのものについての一つの思索です。

ここに示した結論もまた絶対的なものではなく、あくまで筆者の視点に基づく仮説に過ぎません。

本来「幸せ」は各人の内側で完結するものであり、そのあり方は誰にも規定されるべきものではないと考えています。

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