第九話 欠落した登記簿①
「故郷ではない。あそこは、僕が僕を切り売りした、――ただの祭壇だ」 ―九条―
「……おはようございます。九条さん、これを見てください。……リコ、昨夜は一睡もせずにこの暗号を解いてたんですよ」
事務所のソファでくつろぐ九条の前に、リコがタブレットを突き出した。画面には、セーラの端末から掠め取った「黄金の林檎」と名付けられたファイルが映し出されている。リコはクッションを抱えながら、大きな欠伸を一つ漏らした。
「……それで、徹夜の成果はどうだ。リコがそこまで執着するデータだ、ただの顧客リストではあるまい」
九条は、リコのために特別に用意した糖分たっぷりのココアをデスクに置いた。
「九条さん、流石です。それとこれ、リストじゃなくて『登記簿』なんです。それも、実在する土地や建物じゃなく、人間の『記憶』を資産として登録した、闇の法務局のデータです」
リコはココアを一口啜り、熱さに身悶えしながらも、画面の特定の箇所を強調表示させた。
「ここに、九条さんの名前がありました。正確には、『執行官一号・九条から差し押さえた全記憶資産』という項目です。でも……」
リコの手が止まり、真剣な眼差しで九条を見つめた。
「その中身だけ、ごっそり空っぽなんです。消されてるんじゃなくて、どこか別の場所に『再転送』された痕跡があります。転送先は……『忘却の監獄・レテ』。そんな名前の場所、リコの検索エンジンには引っかかりません」
九条の指先が、微かに震えた。
「レテ……。リコ、その名前をどこで」
「データに書いてあったんです。でも、地図のどこにもそんな名前の場所はありませんでした。ただの隠語かもしれませんけど、九条さんにとっては大事な場所なんですよね? 故郷みたいな……」
九条は深く椅子に背を預け、天井を見上げた。
「……いいや、あそこは故郷などという温かい場所なんかじゃない。僕が、自分の過去のすべてを『担保』として差し出した、契約の祭壇だ。……僕に、故郷なんてものはない」
九条の脳裏に、雪の降らない静謐な異世界の光景が過る。
「リコ、そのデータの末尾に、座標のようなものは記されていないか」
「あります。でも、これは緯度や経度じゃありません。……『影の深度』を示す数値です。九条さん、これってまさか、現実の場所じゃないってことですか?」
「ああ。深層意識の下、影取鬼たちが巣食う『影の底』にある座標だ。……どうやら、僕自身の過去を差し押さえに行く時が来たようだな」
その時、事務所の窓に一羽の黒い鴉が止まり、嘴でガラスを叩いた。
「リコ、解析は中断だ。……招かれざる客のようだよ」
九条が立ち上がると同時に、窓ガラスが内側へと静かに溶け始め、影の侵食が事務所の床を染めていった。




