第六話 鏡の中の二重債務②
「九条さん、来ます! 鏡の世界の境界線、突破されました!」
リコの叫びと同時に、実業家の男が持っていた鏡が音を立てて粉砕された。飛び散った破片は空中で静止し、それぞれに「嘲笑う男」の顔を映し出す。
次の瞬間、床に落ちた破片から泥のような漆黒の腕が伸び、実業家の足首を掴んで鏡の破片の「向こう側」へと引きずり込もうとした。
「ひっ、助けてくれ!」
「暴れるな。資産価値が下がる」
九条は厳しく言い放つと、愛用の万年筆のキャップを外した。そこから溢れ出したのはインクではなく、契約を強制的に書き換えるための高密度な魔力だ。
九条が空中に鋭い一線を引くと、男の足を掴んでいた影の腕が、熱せられたナイフでバターを切るように切断された。
「リコ、契約書の『原本』を見つけたか」
「もちろんです! この男のスマホの隠しフォルダにありました。……でも九条さん、これを見てください」
リコが操作するモニターに、禍々しい文面の電子契約書が表示される。その末尾、仲介者の欄には、見たこともない奇妙な「鴉」の紋章が刻印されていた。
「この紋章、前回の影オークションのサーバーの隅っこにもあったやつです。偶然……じゃないですよね?」
リコの声に、いつもの余裕が消え、緊張が混じる。
「鴉、か。……ようやく尻尾を出したな」
九条は目を細め、鏡から這い出そうとする「もう一人の男」の頭を、容赦なく靴の先で踏みつけた。
「リコ、強制解約。代償はすべて、この『影』に肩代わりさせろ。本人の鼓動は一拍たりとも渡さない」
「了解! リコが全力で書き換えます。……ハイ、執行!」
リコがエンターキーを叩くと、鏡の破片たちは一斉に光を失い、ただの砂利となって崩れ落ちた。実業家の男は、自分の影が正しく足元に戻ったことを確認すると、そのまま安堵で気を失った。
「……終わりましたね。でも九条さん、あの紋章の主。なんだか嫌な予感がします」
「ああ。僕の過去に、覚えがある紋章だ。……どうやら、ただの掃除屋家業では済まなくなりそうだな」
九条は窓の外、都会の夜のどこかに潜んでいるであろう「鴉」を睨みつけた。
「自分の代わりに働いてくれる影なんて、リコもちょっとだけ羨ましいかも……なんて。でも、心臓の鼓動まで貸し出すなんて、やっぱり割に合いません。九条さん、リコは心臓じゃなくて『別腹』を貸し出すので、夜食のドーナツ買ってきてください!」 ―リコ―




