第二十七話 白紙の絵本と黒い執筆者②
「白紙のページを、誰にも汚させはしない。君の「一番大切な記憶」を、不当な結末に書き換えられる前に、僕が真実の契約を上書きしよう」 ―九条―
事務所の床一面が、絵本から溢れ出した漆黒のインクに飲み込まれていく。その闇は、物理的な液体というよりも、光を拒絶する「絶望」そのものが具現化したような重苦しさを伴っていた。インクが触れた家具の脚や床板からは、色と質感が奪われ、まるで古い白黒映画の一場面のように色彩が剥ぎ取られていく。
「リコ、解析を急げ。この少女の意識が、物語の『負債』として完全に取り込まれる前にだ」
九条の鋭い声が、闇の唸り声を切り裂いた。彼は懐から銀の万年筆を抜き放つと、迷いのない所作で空を薙いだ。放たれた白銀の軌跡は、押し寄せる闇の波を鮮やかに切り裂き、浄化の光を撒き散らす。しかし、机から転げ落ちた呪われた絵本は、まるで心臓のように不気味に脈動を続け、狂ったような速度で次々と新たなページを生成していた。
剥がれ落ちたページは空中で黒い霧となり、九条の周囲で実体を持って形を成していく。それは、少女が幼い頃に枕元で怯えていた、夢の中の怪物の姿をしていた。尖った爪と、悪意に満ちた無数の瞳を持つ影の兵隊たちが、九条を包囲するようにじりじりと距離を詰める。
「わかってます! でも、この物語のプロット、めちゃくちゃ強固なプロテクトがかかってます! 徴税人レヴィアの連中、少女の『一番大切な記憶』を担保にして、この悲劇を完結させようとしてる……。物語が『終わり』という文字を綴り、最後の一行が書き込まれたら、彼女の存在そのものがこの世のあらゆる記録からデリートされちゃいます!」
リコの指先は、空中に展開された数十ものホログラムウィンドウの上を、爆発的な速さで舞っていた。彼女の瞳には、絵本の深層構造に張り巡らされた複雑怪奇な「影の回路(Shadow Circuit)」のコードが高速で流れ続けている。
「九条さん、リコが外側から物語の論理に過負荷をかけてバグらせます! その瞬間に生じる一秒以下の隙を突いて、九条さんの銀の万年筆で、この白紙のページに『真実の契約』を直接上書きしてください!」
九条は、迫りくる影の怪物たちの苛烈な攻撃を、無駄のない峻厳な身のこなしで受け流した。怪物の一撃が彼の頬をかすめるが、その瞳には恐怖の色など微塵もない。彼は銀のペン先を翻し、一文字描くごとに敵を光の塵へと変えながら、絵本の中心――すなわち呪いの核へと力強く踏み込んだ。
「代価なら、僕が既にレテで支払っている。……物語の主導権を、不当な執筆者から返してもらうぞ」
九条の瞳が、研ぎ澄まされた刃のような光を放つ。彼は絵本の真っ白な余白へ、己の魂を乗せるようにして銀のペン先を深く突き立てた。




