第二十六話 白紙の絵本と黒い執筆者①
事務所こと「精算屋リコルヘイズ」の一室は、今や甘い香りと熱狂的な多幸感に包まれていた。
デスクの上に並べられたのは、駅前の名店から買い占めた新作のベリー・ピスタチオから、不動の定番であるハニー・グレーズまで、全種類をコンプリートした壮観な眺め。
「んふふ……これですよ。この、計算し尽くされた糖分と油分の黄金比! 九条さん、見てください。この新作の断面、もはや影の回路(Shadow Circuit)より複雑で美しいですよ!」
リコはまさに食欲の権化と化していた。頬をリスのように膨らませ、至福のあまり耽溺の溜息をこぼしながら、次々と「作品」を胃袋へ収めていく。その瞳はモニターを解析する時よりも鋭く輝き、ドーナツという名の資産を全力で享受していた。
しかし、その平穏な飽食の時間は、不意に訪れた深夜の訪問者によって破られることとなる。
深夜零時。事務所の重厚な扉を、控えめだが執拗なノックの音が叩いた。
「……リコ、手を止めろ。客だ」
九条が椅子から立ち上がり、上着を羽織る。リコは口の周りにシュガーパウダーをつけたまま「えぇー!」と不満の声を上げたが、手元の端末が鳴らした警告音に即座に表情を切り替えた。
「九条さん、待ってください。この生体反応、異常です! 対象の存在確率が激しく揺らいでます。まるで、内側から何かに『書き換えられて』いるみたいに……!」
九条が扉を開けると、そこには夜の闇に溶け出しそうなほど青白い顔をした少女が立っていた。彼女の腕には一冊の古い「絵本」が抱えられており、そこから漏れ出す真っ黒なインクのような影が、蛇のように彼女の細い腕を這い上がっている。
「……お願い、します。この物語を、止めて……」
少女はそれだけを絞り出すと、糸が切れた人形のように崩れ落ちた。九条がその身体を抱きとめると、少女が持っていた絵本が乾いた音を立てて床に落ちる。
開かれたページは真っ白だった。しかし、そこには目に見えないはずの「悪意」が、文字の形を成そうと蠢いている。
「九条さん、この絵本……ただの影の媒体じゃありません。『徴税人レヴィア』の認識偽装コードが埋め込まれています! 持ち主の記憶を燃料にして、勝手に『悲劇の結末』を自動生成してるんです!」
リコの叫びと同時に、絵本から溢れ出した闇が事務所の床を侵食し始めた。
第二十六話 とある行間の声
「(……ああ、もう! 新作のベリー・ピスタチオ、あと三口で完食だったのに! 口の周りの砂糖を拭く暇もないなんて、精算屋の労働環境はどうなってるんですか。九条さんも九条さんで、あんなカッコよく女の子を抱きとめちゃって……。でも、あの絵本から漏れ出してる認識偽装コード、尋常じゃない速さで少女の記憶を喰ってる。不味い、このままだと彼女の存在ごとバッドエンドに上書きされる。……リコ、集中。ドーナツの多幸感は一旦アーカイブして、今は全リソースをこのクソッタレなプログラムの駆除に回すんだ……!)」
―リコ―




