第十七話 欠落の貸借対照表(バランスシート)③
「絶望してる暇があるなら、リコはコードを書きます。……計算ミス(バグ)の代償は、高くつきますよ?」 ―リコ―
「……なんて、嘘に決まってるじゃないですか。バーカ」
絶望が支配するはずの静寂を破ったのは、リコの低く、しかし確信に満ちた声だった。彼女は俯いていた顔をゆっくりと上げ、その瞳には記録官への激しい怒りと、技術者としての不敵な光を宿していた。
彼女の周囲では、先ほど九条から託された膨大な「影のエネルギー」が青白い火花を散らし、それを燃料にして数千、数万というホログラムウィンドウが爆発的な勢いで展開されていた。情報の奔流が「影の回路(Shadow Circuit)」を逆流し、レテの無機質な空間に激しい電子の唸り声を響かせる。
「九条さんは消えてませんよ。リコ特製の『空の口座』に、彼の存在全データを一時的に退避させただけです。……記録官さん、あなたの自慢の帳簿、今すごいことになってますよ? ほら、『存在しないはずの資産』を無理やり処理しようとして、システムが悲鳴を上げてる」
リコの指摘通り、記録官が抱えていた巨大な帳簿が、禍々しい赤色に発光し始めた。ページが狂ったようにめくれ上がり、端からボロボロと灰になって剥がれ落ちていく。
このレテという監獄を支える論理は、厳格な「貸借対照表」だ。九条という巨大な負債と資産を併せ持つ個体が、システムの計算外で突如として「ゼロ」になった。その矛盾は、レテの基幹プログラムにとって致命的な毒となり、この世界全体の整合性を崩壊させ始めていた。
「おのれ、小娘が……! 契約を、この神聖な記録を汚すというのか! 何をした、一体何を変えた!」
記録官は狼狽し、空になったインク瓶を必死に帳簿に叩きつける。しかし、一度生じた計算の狂いは止まらない。周囲に林立していた書類棚が、地響きを立てて内側から崩壊し、数多の忘却された記憶が吹雪のように舞い上がった。




