第十六話 欠落の貸借対照表(バランスシート)②
記録官は帳簿のような仮面の奥で冷酷に笑い、手に持ったインク瓶をゆっくりと傾けた。そこから溢れ出したのは、ただのインクではない。数多の債務者から奪い取った絶望と忘却を煮詰めた、純粋な闇の濁流だ。それは津波のような勢いで、無防備な九条を完全に包み込もうと迫る。
圧倒的な闇の圧力を前に、リコが悲鳴に近い声を上げた。
その瞬間、九条は背後のリコにだけ聞こえる、極めて静かで穏やかな声で告げた。
「リコ……。僕の影、そのすべてを君に託す。僕が消えた後、一秒だけこの世界の帳尻を狂わせろ」
「え……? 九条さん、何を――」
リコの言葉が終わるより先に、九条の身体から残されたすべての闇が剥がれ落ちた。それは一本の黒い糸となり、リコの掲げる端末へと猛烈な勢いで流れ込んでいく。
影という名の「実体の重し」を失った九条は、もはやこの物理世界に留まる術を持たなかった。質量を失い、色彩を失い、最後にはその峻厳な輪郭さえもが、レテの灰色の空へと吸い込まれていく。
記録官の持つ巨大な帳簿が、ガチガチと不気味な音を立てて自動的に更新された。そこには、血のような赤色で残酷な一文が刻まれる。
――債務者・九条、個体消失を確認。回収すべき資産価値、ゼロ。
「な……消えただと!? 契約の完遂を待たず、自己破産を選んだというのか! 私のコレクションが、清算される前に霧散するなど……ありえん!」
記録官の狼狽した叫びが、虚空へと空白を埋めるように響き渡った。
九条のいた場所には、主を失った一本の万年筆だけが残されていた。それは乾いた音を立てて灰の地面を転がり、静かに静止した。九条という存在がこの世にいたことを示す唯一の証拠が、不気味な静寂の中にポツンと取り残されていた。
「『帳尻を狂わせろ』なんて、そんなの九条さんに言われなくてもリコの得意分野です! でも……勝手に一人で消えちゃうなんて、リコ、絶対に許しませんからね。九条さんが残してくれたこの『影』、ただのデータだと思ったら大間違いです。これを燃料にして、レテの理屈を根底からバグらせてやります!」
―リコ―




