第十五話 欠落の貸借対照表(バランスシート)①
「負債ごと僕を飲み込め。……空っぽの魂に、これ以上の『破産』などない」 ―九条―
灰色の風が、忘却の監獄・レテの静寂を切り裂いて吹き抜ける。その風は、長い年月を経て風化した古い紙の匂いと、行き場をなくした記憶の塵を孕んでいた。見渡す限り林立する巨大な書類棚は、空のない灰色の天へと届くほどに高く、その隙間を縫うように、黒い鴉たちが不吉な羽音を立てて旋回している。
記録官と名乗る男の振るう羽ペンが、空中に「九条」という名の負債を鋭く書き連ねるたび、九条の実体は陽炎のように薄れ、輪郭が背景の灰色に溶け出していった。
「……九条さん、ダメです! 存在確率が、もう10%を切っています! このままじゃ、再構成に必要な核まで削り取られちゃいます!」
リコの声が、周囲を取り巻く膨大な情報の濁流に飲み込まれそうになりながら響く。彼女は必死にキーを叩き、九条の周囲に保護障壁を展開しようとするが、レテという領域そのものが持つ「契約の強制力」を前には、最新の防御プログラムも砂の城のように脆く崩れ去っていった。
九条は重い鉛を背負わされたかのように、ゆっくりとその場に膝をついた。震える視線で己の右腕を見つめる。そこにはもう、人の肌としての質感も、温もりを伝える血通う気配すら残っていない。ただ、執行官としての「職務」を遂行するという鉄の意志と、契約の概念だけが、辛うじて彼をこの場所に繋ぎ止めていた。
「記録官……。僕がこれまで清算してきた影、そして救えなかった者たちの記憶が、すべて負債だと言うのなら。それらすべてを、僕という存在を担保にして飲み込んでみせよう」
九条の声は掠れ、風の中に消え入りそうだった。だが、その瞳だけは、実体を失いかけながらも冷徹な光を放ち続けていた。
「強がりを。君という器が完全に壊れれば、そこに蓄積された負債はすべて『回収不能』として処理される。つまり、君という魂は、この世界のあらゆる記録から永久に抹消されるのだよ。資産価値のない存在に、居場所などない」




