第十三話 忘却の監獄・レテへの門①
「ようやく戻ったか。……この紙の焼けるような匂いこそ、僕の喪失の原風景だ」 ―九条―
湿った冷気と、鉄錆の匂いが立ち込める。街の喧騒から隔絶された地下鉄の廃連絡通路は、都会の動脈から切り離された死骸のようだった。
「ここですね。九条さんの影の残滓が、この先の壁の向こうに吸い込まれています」
リコはタブレットの画面を操作し、周囲の空間をスキャンした。通常のセンサーには何も映らないが、リコが構築した特殊な観測プログラムは、コンクリートの奥に張り巡らされた巨大な Shadow Circuit(影の回路)を捉えていた。
無数の黒い線が神経細胞のように壁面を這い、一点の巨大な「結節点」へと収束している。それは実在する配線ではなく、情報の奔流そのものが形作った影の血管だった。
「九条さん、準備してください。リコが今から、この Shadow Circuit の周波数を一時的に書き換えて、レテへのパスを開きます。チャンスは三秒、同期がズレたらリコたちまで影の中に溶けちゃいますから」
リコの声には緊張が滲んでいた。
九条は、影墨の僅かに残った万年筆を抜き、手元で静かに構えた。
「ああ。タイミングは君に任せる」
リコが特定のコマンドを入力すると、耳を劈くような高周波の音が通路に響き渡った。同時に、壁面の黒い回路が一斉に脈動を始め、強固なはずのコンクリートがまるで泥水のように波打ち始める。
「今です! 飛んで!」
リコの叫びと同時に、二人は実体を持たぬ闇の深淵へと身を投じた。
視界が反転し、重力が消失する。Shadow Circuit を流れる膨大な情報の濁流と、誰かの欠落した記憶の断片が、鋭いノイズとなって意識を削ろうと襲いかかる。
九条は空中でリコの手を強く握り、自らの僅かな影を広げて彼女を包み込んだ。
「……離すなよ、リコ。ここからは僕たちの存在証明そのものが武器になる」
やがて激しい落下の衝撃が止まり、二人が目を開けた先に広がっていたのは、空のない灰色の世界だった。
見渡す限り、天を突くほど巨大な書類整理棚が林立し、その隙間を黒い鴉たちが監視するように飛び交っている。空気は乾燥し、古い紙の匂いと、何かが摩耗したような乾いた気配が満ちていた。
そこは、世界から奪われた過去が沈殿し、資産として管理される場所。忘却の監獄・レテだった。




