第十話 欠落した登記簿②
事務所の床を這う影は、まるで意思を持つ生き物のように九条の足元へ絡みつこうとした。窓から侵入した黒い鴉が、不気味な声で鳴き声を上げる。
「九条さん、下がって! 事務所のセキュリティを影専用の防壁に切り替えます!」
リコは素早くデスクの下から予備の端末を取り出し、空中にいくつものホログラムウィンドウを展開した。リコの指先が閃くたび、影の侵食を押し止める青い光のラインが床に刻まれていく。
「リコ、無茶はするな。防壁が突破される前に、僕が元を断つ」
九条は厳しい表情を崩さぬまま、右手に持った万年筆を鋭く振った。ペン先から放たれたのは、九条の影の残滓を市販の黒インクと混ぜ合わせた特注インク『影墨』だ。その黒い飛沫が窓際の鴉を直撃し、不浄な存在を即座に霧散させる。
しかし、消えた鴉の代わりに、窓の外からは無数の手が伸びてきた。それは肉体を持たない、純粋な悪意の塊だった。
「九条さん、ダメです! 相手の影の深度が深すぎて、リコのプログラムが書き換えられそう……! このままだと、リコたちの存在自体が『未登録の資産』として消去されちゃいます!」
リコの声に焦りが混じる。モニターには、二人の生存ログが点滅し、徐々に薄れていく警告が表示されていた。
九条はリコの背後に立ち、彼女の肩にそっと手を置いた。
「リコ、僕を信じろ。……執行官の権限を君に一時譲渡する。僕の影の半分を鍵にして、強制再起動をかけるんだ」
「そんな……。九条さんの影を半分も使ったら、九条さんの実体が持たなくなります!」
「構わない。僕の過去がレテにあるのなら、ここで消えるわけにはいかないんだ」
九条の影が大きく揺らぎ、その一部がリコの端末へと流れ込んでいく。
「……わかりました。リコ、やります! 九条さんの影、必ずリコが守り抜いてみせますから!」
リコが叫び、エンターキーを力強く叩きつける。
瞬間、事務所全体が目も眩むような白い光に包まれた。影の手は悲鳴を上げて弾け飛び、侵食されていた空間が、激しい振動と共に元の形を取り戻していく。
光が収まった時、窓の外にはいつもの都会の夜景が戻っていた。だが、九条の身体はどこか透き通っており、足元の影は驚くほど短くなっていた。
九条は力なくソファに沈み込み、荒い息をつく。
「九条さん……! 無茶しすぎです。今すぐバイタルチェックしますから動かないで!あとこれ、経口補水液を飲んでください!」
「九条さんの影を半分預かるなんて、世界一重たいキーを受け取っちゃいましたよ。……でも、リコが守るって決めたんです。これからは二人分の実体、リコが責任持って管理してあげますからね! 九条さんは大人しく寝て、リコが買ってきた特大プリンでも食べててください!」 ―リコ―




