第9章 辛いものは、好きな人と食べたい
「……これ、本当に“辛くしないで”って言ったよね?」
共用キッチンに漂う、唐辛子と香辛料のむせ返るような香り。
水谷愛梨が眉間にしわを寄せながら、味見用のスプーンを差し出すと、隣にいた伊佐俊樹が申し訳なさそうに頭を下げた。
「すみません、少し、感覚が……」
「いや、“少し”ってレベルじゃないって。これはもう、鍋の中で火事が起きてる味だよ」
「……でも、僕にとっては、ちょうどいいんです」
俊樹の声には、悪気がまったくない。それがまた、怒れない。
彼は、どこか独特な感覚を持っている。誰かの補佐を自然に引き受けるタイプだが、自分のこだわりにはしれっと頑固さを見せる。
「味覚、どうなってるの……」
「唐辛子は、食べ物というより“香りの温度”なんです。……あ、意味わかんないですね、すみません」
そう言って、俊樹は照れたように笑った。
愛梨は、思わず苦笑する。
「でもまあ、個性としてはアリかもね。“激辛料理男子”っていう新ジャンル」
「それ、誰得ですか……?」
その様子を、少し離れたテーブルから鳥澤礼奈が静かに見ていた。
彼女は今夜、キッチン当番ではなかったが、なぜか片手にタオルを持って立っている。
そして、さりげなく換気扇のスイッチを強に切り替えた。
「空気、こもると辛さが拡散しますから」
「……なるほど。助かります」
俊樹はぺこりと頭を下げ、礼奈は静かに会釈を返した。
30分後、ダイニングには、“予定外にスパイシーな”麻婆豆腐と、礼奈が用意した“辛さリセット用のたまごスープ”が並べられていた。
「……この並び、戦いと癒しのコントラストだよね」
未奈が口をすぼめながら呟く。
「でも、意外と悪くないよ。なんか、“試練”のあとにご褒美が来る感じ?」
「それ褒めてない」
「いやいや、味のバランス、計算されてるな~って。俊樹くん、礼奈ちゃんに助けられてるねー」
「……否定できない」
俊樹が素直に答えると、礼奈がわずかに笑う。
「辛さって、人によって“刺激”にも“痛み”にも“楽しさ”にもなるから、面白いなと思ってて」
その言葉に、愛梨がふと手を止めた。
「……それって、感情も同じかもね」
「え?」
「刺激的な人って、最初は“しんどい”って思うけど、だんだん慣れてくると、“いないと物足りない”って思ったりして」
皆の視線が、思わず谷川凌のほうへ向いた。
「なぜ、そこで俺を見る」
「いやー……ほら、“スパイシーな存在”だから?」
「意味が不明だ」
愛梨は笑いながら箸を動かし、辛さを中和するスープを飲んだ。
「でも、今日のごはんはちゃんと美味しかった。ありがとう、俊樹くん。……あと、礼奈さんも」
「こちらこそ、みんなが食べてくれてうれしいです」
礼奈がそっと返すと、俊樹が照れくさそうに手を重ねるような仕草をした。
それは、言葉にならない“信頼”のように見えた。
食後。皿洗いを終えた俊樹が廊下を歩いていると、後ろから礼奈が声をかけてきた。
「……麻婆豆腐、今度はもう少しマイルドにしてみませんか?」
「え?」
「“私向けの味”って、興味あります?」
俊樹は一瞬言葉を失い、それから、ゆっくりと頷いた。
「……あります。今度、ぜひ一緒に」
「うん。楽しみにしてます」
その夜、愛梨は自室で日記アプリを開いた。
今日は何も大きなことは起きなかった。
けれど、不思議と心があたたかかった。
《辛いものは、誰かと食べたほうが美味しい。……もしかして、人生もそうなのかもしれない》