第8章 それでも進むしかない夜
夜が、静かに沈んでいた。
星見坂レジデンスの廊下には、人の気配がない。
共有キッチンの明かりも落ち、遠くから虫の声が微かに聞こえてくる。
その静寂のなか、水谷愛梨は時計を見上げていた。
時刻は、夜の十時を回っていた。
「……まだ帰ってこない」
その声に、隣で肩を並べる谷川凌が頷く。
「伊織未奈が、外出届を出さずに消えている。すでに門限を三十分オーバーだ」
「スマホにも出ない。既読にもならない。……普段なら、連絡が雑でも“既読スルー”で済む子なのに、今回はなんか違う気がする」
愛梨の声には、どこか焦りがにじんでいた。
もともと、未奈は気分屋で、思い立ったら行動するタイプだ。
それでも今夜は、“消える”ように姿を消したのだ。
「翔大にも確認したが、心当たりはないと言っていた。彼女の部屋の状態も、外出目的にしては中途半端に雑だ」
「つまり、“行き先を決めずに”出てった可能性が高いってこと?」
「……ああ。だからこそ厄介だ。場所の予測が困難になる」
凌は腕時計を見ながら、すでにルートをいくつかシミュレーションしている様子だった。
だが、その横で愛梨はただ静かに、窓の外を見つめていた。
「私、探しに行く」
「待て。単独行動は危険だ。もう夜だし、町灯りも少ない」
「それでも。……あの子、泣いてる気がする」
凌は一瞬だけ、その言葉に戸惑いを見せた。
“泣いてる気がする”──根拠はない。けれど愛梨の言葉には、ただの直感ではない何かがあった。
「彼女がよく行く場所、いくつか心当たりがある。ひとりじゃなくて、二人で行こう。分担するより、行動を減らして集中した方が安全だ」
「……ありがとう」
二人は、未奈の好みを思い出しながら、立ち寄りそうな場所をリストアップした。
その前に、二人は施設の管理責任者へ電話を入れ、緊急時対応として門限後の外出許可を得た。 玄関脇の外出記録にも「伊織未奈の所在確認のため」と明記して署名する。 ルールを守ることと仲間を守ること――その両方を外さないための準備だった。
古い公園、丘の上の神社、町外れのコーヒースタンド跡地。
そのなかの一つ、“橋の下の遊歩道”を選び、懐中電灯を手に歩き始める。
静まり返った夜道に、足音と虫の声だけが交互に響いた。
やがて、歩道橋の下のベンチで、愛梨が足を止めた。
「……いた」
見つけたのは、膝を抱えて座る未奈だった。
スマホもカバンもそばに放り出されており、顔は髪に隠れてよく見えない。
愛梨がそっと近づく。
「未奈……?」
彼女は、ビクリと肩を震わせ、ゆっくり顔を上げた。
目元は赤く、涙の跡が乾きかけていた。
「なんで、来たの……」
「来るに決まってるでしょ。心配したよ」
「……でも、わかってた。私、また逃げてるって。誰も悪くないのに……勝手に“傷ついたふり”して、誰も巻き込まずに終わらせようとしてた」
「“ふり”なんかじゃないよ」
そう言ったのは、後ろにいた凌だった。
未奈が驚いたように顔を上げる。
「誰だって、自分の気持ちの出口が見えなくなる時がある。俺たちは、それを“問題”と見なすことはあっても、“罪”だとは思わない」
その言葉に、未奈の目が潤んだ。
愛梨が隣に座り、そっと彼女の肩に手を置く。
「つらいときは、つらいって言っていいよ」
「……でも、めんどくさいって思われるかもって……私、誰かにそう言われたことがあって、それがずっと頭に残ってて」
「じゃあ、今ここで、上書きしよう」
愛梨はにっこりと笑って言った。
「あなたが“いなくなったら困る”って思う人、ここにちゃんといるから」
帰り道、未奈は小さな声で「ありがとう」と言った。
凌はそれに「当然の行動をしただけだ」と返したが、どこか声の色が柔らかくなっていた。
その夜、帰宅後。
共用キッチンの片隅で、愛梨と凌は静かに座っていた。
蒸気の立つマグカップから、香ばしい麦茶の香りが漂う。
「……あなたって、人に対して“役割”で動いてるのかと思ってた」
「……間違ってはいない。ただ、“誰かを守る”ことが、時に最短の問題解決になることもある」
「でも、今日のあなたの言葉、ちゃんと“誰かを想ってる”って感じたよ」
凌は、何かを飲み込むようにしてから、小さく頷いた。
「……君の言葉の力だと思う。俺は“予測する”ことで人と関わってきたけど、君は“共感する”ことで届くんだなって」
「……へえ、初めて褒められたかも」
「褒めてない」
そう言いながらも、凌の口元が少しだけ緩んだ。
音もなく、距離がまた少しだけ、近づいていた。