第6章 流されても、止まらなければいい
「……失敗したぁあああ……」
共用ラウンジに響く絶叫は、誰もが一度は予想していた。
菅谷さくらがテーブルに突っ伏してうめいていた。
目の前には、ぐちゃぐちゃになったポスター用の画用紙と、乾ききらない絵の具の痕跡。
「ごめんなさい……ほんとごめんなさい……私、手を出しちゃいけないとこに筆持ってっちゃって……」
周囲には、一緒に作業をしていた拓夢、未奈、礼奈らがいたが、誰も責める様子はない。
それでも、さくらは自責の念を止められずにいた。
「わたし、また……流されるように動いちゃって……もう嫌になる……」
ぐずぐずと涙をこぼしながら、シミになった用紙をぎゅっと握る。
誰よりも几帳面であるはずの自分が、なぜか“その場の空気”に流されて判断を誤る──それは、さくら自身がもっとも苦しんでいることだった。
「さくらさん」
隣に座っていた拓夢が、そっと声をかけた。
彼は一度も焦った顔を見せていない。ただ、自然な動作で、もう一枚新しいポスター用紙を広げる。
「もう一回、やりましょう」
「……え?」
「失敗したってことは、もう一回やるチャンスができたってことです」
淡々と、けれど温かく。
さくらは拓夢の指先を見た。彼の手はすでにマスキングテープで作業準備を整えていた。
「私、向いてないのかもって思ってた……」
「それ、今判断する必要あります?」
「え……?」
「作ってから考えても、いいじゃないですか」
それは、どこまでも“今”にフォーカスした言葉だった。
未来志向で生きてきたさくらにとって、それは少し、目から鱗が落ちるような感覚だった。
その後、二人での作業は静かに進んだ。
さくらは、今度は構図を明確に描き、色の順番を考え、慎重に筆を動かした。
横で黙々と補助に回る拓夢が、絵具を用意したり、下書き線をなぞったりしてくれる。
「……すごいな、上地くんって。何でも器用にこなせるよね」
「やるべきことは、やるだけです」
「冷たいようで、ちゃんとあったかいっていうか……うまく言えないけど」
「ありがとうございます。あまり、性格の評価は気にしていないけど、褒められるのは嫌いじゃないです」
その言葉に、さくらはふっと吹き出した。
「じゃあ、また褒めようかな」
「どうぞ」
そして二人は、何もなかったかのように作業を続けた。
流されたり、止まったり。
でも、止まってもいい。ただ、もう一度動き出せれば、それで十分だと教えてくれる時間だった。
夕方、完成したポスターは、思った以上に良い仕上がりになった。
ラウンジの壁に貼られた瞬間、未奈が「おー! 前のより絶対いい!」と拍手をしてくれた。
「すごいじゃん、さくら! むしろ間違ってくれてありがと!」
「……え、それってどういうこと?」
「だってさ、最初から完璧だったら、私ここに立ってなかったし」
未奈の言葉に、さくらは照れくさそうに笑った。
(流されたって、立て直せる。立て直せたら、それはもう“失敗”じゃないのかも)
そう思える自分がいることに、少し驚いていた。
夜。共用スペースを出ようとしていたさくらの背中に、拓夢の声が届いた。
「次も、もし困ったら呼んでください」
「……うん。たぶん、また呼ぶと思う」
「何回でもいいですよ。俺、タスク処理得意なんで」
「“タスク”って言うと味気ないけど……なんか、それでもいいな」
「なら、たまに“感情処理”もします」
「なにそれ、ちょっとだけ面白いじゃん」
二人の間に、ほんの少し、特別な“間”が流れた。
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