第5章 目標は、いつも一人じゃ決められない
「この進行表、どう思う?」
昼下がりのミーティングスペースに、パリッとした紙の音が響いた。
それを手にしていたのは、沢田翔大。責任感の強い目元が、まっすぐに谷川凌を見つめている。
配られたその資料には、今月末に開催される「星見坂オープンデー」の企画案とタスク分担、予算案まできっちり書き込まれていた。
「準備期間が短すぎる。予備日を確保していないし、各班の行動フローにも無理がある」
「でも、それじゃ今月中に完了しない。スケジュールを後ろにずらすと、地域の祭事と被る。今しかないんだよ」
「それは“今やるべき理由”ではなく、“他の選択肢を消した結果”だ。計画には柔軟性が必要だ」
「……柔軟性ばっかり言ってたら、いつまでも決まらないよ」
言い合う二人の間に、居合わせた数人の視線が集まっていた。
誰も口を挟まない。ただ沈黙が重なっていく。
そして、その空気を破ったのは水谷愛梨だった。
「ねえ、少し聞いてもいい?」
愛梨は、ソファの端からゆっくりと口を開いた。視線は翔大へ。
「この企画、誰が一番楽しんでくれると思ってる?」
「え?」
「子ども? お年寄り? それとも、わたしたち自身?」
翔大は一瞬返事に詰まった。
愛梨はそれを待たず、続ける。
「もし“私たち”が楽しいって思えないなら、多分地域の人も巻き込まれないんじゃないかなって」
「……それは、そうだけど」
「じゃあ、もうちょっと“やりたいこと”を軸にして考えない?」
「やりたいことって……?」
「うん。『スケジュールを守るためにやる』じゃなくて、『これをやってみたい』から始めるっていうか」
凌は、愛梨の言葉を横で聞きながら、少しだけ目を細めた。
彼女の語り口は決して論理的ではない。けれど、人の心を“納得”ではなく“共感”で動かす力がある。
そのあと、翔大は資料を閉じて言った。
「……もう一回だけ、整理してみる」
「うん。わたしも手伝う」
その返事に、翔大は小さく頷いた。
会議が終わったあと、愛梨が廊下で一人、ペットボトルを手に座っていた。
窓の外には、少しずつ春の色が増してきた並木道が見える。
そこへ、谷川凌が声をかけた。
「さっきは、助かった。俺じゃ、あの場は納められなかった」
「……珍しい。あなたが『助かった』って言うの」
「状況に応じた評価をしただけだ」
「ふふ、やっぱりそう返すんだ」
愛梨は笑ってから、ふとまじめな顔になる。
「ねえ、あなたが思う“正しさ”って、どこまで信じられる?」
「……どういう意味だ」
「たとえば今回みたいに、“正しく組まれた進行表”よりも、“気持ちの温度”を優先したくなることってない?」
凌は黙った。
しばらくして、小さく首を振る。
「“正しさ”には再現性がある。人の感情にはない」
「でも、私たち、人間だよ?」
その言葉に、凌は視線を落とした。
彼の中に、論理と感情の狭間で揺れる何かが、確かに存在していた。
その夜。
翔大は、再度修正した企画書を皆に共有した。
そこには、最初のような“カッチリとした完璧”はなかった代わりに、柔らかくて自由な空白があった。
未奈がそれを見て、「これなら私も手伝いたいかも」と言い、さくらは「子どもたちの似顔絵コーナー、やってもいい?」と提案した。
「目標って、一人で決めるもんじゃないんだな」
そう呟いた翔大に、誰かが返事をした。
「うん、共有できるものなら、ね」
その声に振り返ると、そこには愛梨がいた。
その顔は、あの時よりもずっと柔らかく笑っていた。