第4章 安心感は音もなく降ってくる
朝のダイニングは、いつもより静かだった。
というより、「音があっても、うるさくない」そんな穏やかな空気が流れていた。
原因は明らかだった。
料理担当だった鳥澤礼奈が、驚くほど手際よく、しかも音を立てずに準備を進めていたからだ。
彼女が台所に立つだけで、空間全体がふわりと落ち着いていく。
「……すごい。まるで料理教室の見本みたい」
さくらがぽつりと呟きながら、奥のカウンター越しにその姿を見つめていた。
対して、料理を受け取った伊佐俊樹は、手を合わせてからひと言。
「うまい。辛さもちゃんと立ってるのに、無駄がない」
「よかった。塩加減、ちょっと悩んだんです」
「悩んでたの? 全然そんな風に見えなかった」
「……あんまり顔に出すの、苦手なんです」
礼奈は少しだけ笑って、また静かに皿を洗い始めた。
その背中を、伊佐はどこか名残惜しげに見つめていた。
その日の午後。
愛梨は共用のラウンジで資料整理をしていた。
テーブルには地域イベントのフライヤーが並べられ、手帳と蛍光ペンも開かれている。
そんな愛梨のそばに、ふと礼奈が現れた。
「隣、いいですか?」
「もちろん。っていうか、礼奈さん、こういうところで話すの珍しいよね」
「うん……あまり、自分から話しかけるの、得意じゃなくて」
「でも、居るだけで空気がやさしくなるから、すごいなって思ってた」
礼奈は、少しだけ照れくさそうに微笑んだ。
それは、彼女にとって「自分を外に出す」という行為の一つだった。
「私ね、人に期待されるの、ちょっと怖くて……」
「え?」
「家でも学校でも、いつも“穏やかでいなさい”って言われてきて。そうしてるうちに、自分でも“そうしなきゃ”って思って」
「……わかるかも」
愛梨の返事は、少し遅れて出た。
共感の言葉は、彼女にとって“選んで差し出すもの”であり、軽々しくは口にしない。
それでも今は、礼奈の繊細な言葉に、何かが静かに響いた。
「私も、感情を出すのが下手だから、逆に“わかってくれそうな人”がいると安心する。礼奈さんみたいに」
「……ありがとう。うれしいな」
その後、二人はフライヤーを見ながら静かに談笑した。
無理に話題を探さず、間があっても気まずくならない。
“静けさの中で呼吸が合う”──そんな感覚がそこにあった。
その日、伊佐は珍しく早めに仕事を終えて帰宅した。
共用のベンチに座っていると、礼奈が一人で出てきた。
「おかえりなさい」
「……ただいま」
言葉はそれだけだったが、それで充分だった。
彼女がそこにいるだけで、どこか心がほぐれていく。
「辛いの、また作りますね」
「え?」
「……伊佐さん、辛いの得意って、前に言ってたから」
「……覚えててくれたんだ」
「……うん」
それだけで、会話は終わった。
だが、それ以上のやり取りは必要なかった。
夜、リビングで。
愛梨は今日一日を思い返していた。
(あの二人、言葉少ないのに、なんであんなに安心感あるんだろ)
言葉がなくても、通じるものがある──
愛梨にはまだ、それがよくわからなかった。
けれど、“わからないけど羨ましい”という感情が、じんわりと胸に残っていた。
そしてその瞬間、廊下の奥から聞こえてきた声に顔を上げる。
「──共有スペースの明かり、時間外には消灯です」
いつものように、ルールを守らせるための谷川凌の声だった。
だが、どこか以前よりも柔らかく聞こえたのは、きっと気のせいじゃない。
(もしかして、この人も……ちょっとずつ変わってる?)
その姿を見つめながら、愛梨の中にも、静かに一滴、変化のしずくが落ちていた。
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