表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
恋に踏み出す、その前に。──たった一歩が、こんなにも遠くて、愛しくて。  作者: 輝


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

39/40

第39章 恋に踏み出す、その前に

  朝の風は思ったより冷たく、けれど不思議と澄んでいた。

  六月の終わり。星見坂レジデンスは、前日をもって正式に“卒業”となり、静けさを取り戻していた。

  けれど、その入口前にひとり立つ姿があった。

  谷川凌だった。

  キャリーケースはなく、ただ手には小さなメモ帳とスマートフォン。

  彼の目は、施設の二階――かつて水谷愛梨が使っていた部屋の窓を見上げていた。

  そこには、もう誰もいない。

  けれど、あの窓辺に腰掛けていた彼女の姿が、確かに脳裏に焼き付いている。

  彼女の手紙。

  自分の言葉。

  それでも、まだ“最後の一歩”が踏み出せていなかったことに、彼は気づいていた。

(言ったつもりでいたけど、本当に言えてなかった)

(ちゃんと、会って伝えないと、“終わってない”まま、日常に戻ってしまう)

 

  その頃――都心の駅前カフェ。

  愛梨は、新しい生活に必要な資料を整理しながら、ふとスマホを見つめていた。

  通知は来ていない。

  けれど、気持ちはざわついていた。

  昨日のあの会話が、すべてを終わらせた気はしなかった。

  むしろ、“まだ何かが始まっていない”感覚が、心のどこかに残っていた。

(もう一度、会いたい)

  そう思ったときだった。

  スマホの画面が震える。

 ──「今から、君に会いに行きます。

  待っててくれたら、伝えたいことがあります」──

 

  それは、凌からだった。

  たった二行。けれど、十分すぎるほどの衝撃だった。

  愛梨は一度だけ目を閉じ、それから静かに席を立った。

 

  その日、二人は駅前の小さな公園で再会した。

  時間は昼過ぎ。日差しが強くなり始めていたが、風にはまだ春の名残があった。

  「……来てくれると思わなかった」

  愛梨の第一声に、凌は息をつくように笑った。

  「来るしかなかった。あのままじゃ、“踏み出せないまま”になると思ったから」

  二人は向かい合って立った。

  人通りはあるが、不思議と“二人だけの空間”のように感じられた。

 

  「手紙のこと、改めてありがとう。……読んで、思った」

  「……うん」

  「まだ俺、“恋に踏み出してなかった”って」

  愛梨は小さく首を傾げた。

  「……どういう意味?」

  凌は少し言葉を探したあと、真っすぐな声で続けた。

  「君がくれた言葉に甘えてた。好きって言った、手も握った、想いも伝え合った。

  だけど、俺は“本当の恋”って、もっと先にあるものだって思ってた。

  “不安になっても、信じ合える”とか、“未来を想像してしまう”とか。

  ……まだ全部が怖かった」

  「今は?」

  「怖いまま。でも、それでも――ちゃんと“踏み出したい”って思った」

 

  その言葉のあと、しばらく沈黙が落ちた。

  愛梨は、ゆっくりと目を伏せ、それから顔を上げた。

  「私も、まだ怖いよ。

  でも、あなたと一緒にその“怖さ”を感じていけるなら、それが“恋”なんだと思える」

  凌の表情が、ゆるんだ。

  「……じゃあ、今から始めよう」

  「何を?」

  「“恋に踏み出す、その一歩”を。名前なんかなくても、ちゃんと“あなたと歩きたい”って思える関係を」

 

  二人は、どちらからともなく歩き出した。

  手はまだつながなかった。けれど、歩幅は自然と揃っていた。

 

  その夕方、愛梨のノートにはこう記された。

 《恋は、はじまりの瞬間がわからない。

  でも、“この人となら、怖くても進める”と思えたとき、

  それはもう“恋に踏み出した”ってことなんだと思う》

 

  そして凌は、スケッチブックのページにこう書いた。

 《たった一歩が、こんなにも遠くて、

  でも、その一歩の先に“君”がいてくれるのなら、

  この先は、全部進んでいける気がする》

 ________________


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ