第39章 恋に踏み出す、その前に
朝の風は思ったより冷たく、けれど不思議と澄んでいた。
六月の終わり。星見坂レジデンスは、前日をもって正式に“卒業”となり、静けさを取り戻していた。
けれど、その入口前にひとり立つ姿があった。
谷川凌だった。
キャリーケースはなく、ただ手には小さなメモ帳とスマートフォン。
彼の目は、施設の二階――かつて水谷愛梨が使っていた部屋の窓を見上げていた。
そこには、もう誰もいない。
けれど、あの窓辺に腰掛けていた彼女の姿が、確かに脳裏に焼き付いている。
彼女の手紙。
自分の言葉。
それでも、まだ“最後の一歩”が踏み出せていなかったことに、彼は気づいていた。
(言ったつもりでいたけど、本当に言えてなかった)
(ちゃんと、会って伝えないと、“終わってない”まま、日常に戻ってしまう)
その頃――都心の駅前カフェ。
愛梨は、新しい生活に必要な資料を整理しながら、ふとスマホを見つめていた。
通知は来ていない。
けれど、気持ちはざわついていた。
昨日のあの会話が、すべてを終わらせた気はしなかった。
むしろ、“まだ何かが始まっていない”感覚が、心のどこかに残っていた。
(もう一度、会いたい)
そう思ったときだった。
スマホの画面が震える。
──「今から、君に会いに行きます。
待っててくれたら、伝えたいことがあります」──
それは、凌からだった。
たった二行。けれど、十分すぎるほどの衝撃だった。
愛梨は一度だけ目を閉じ、それから静かに席を立った。
その日、二人は駅前の小さな公園で再会した。
時間は昼過ぎ。日差しが強くなり始めていたが、風にはまだ春の名残があった。
「……来てくれると思わなかった」
愛梨の第一声に、凌は息をつくように笑った。
「来るしかなかった。あのままじゃ、“踏み出せないまま”になると思ったから」
二人は向かい合って立った。
人通りはあるが、不思議と“二人だけの空間”のように感じられた。
「手紙のこと、改めてありがとう。……読んで、思った」
「……うん」
「まだ俺、“恋に踏み出してなかった”って」
愛梨は小さく首を傾げた。
「……どういう意味?」
凌は少し言葉を探したあと、真っすぐな声で続けた。
「君がくれた言葉に甘えてた。好きって言った、手も握った、想いも伝え合った。
だけど、俺は“本当の恋”って、もっと先にあるものだって思ってた。
“不安になっても、信じ合える”とか、“未来を想像してしまう”とか。
……まだ全部が怖かった」
「今は?」
「怖いまま。でも、それでも――ちゃんと“踏み出したい”って思った」
その言葉のあと、しばらく沈黙が落ちた。
愛梨は、ゆっくりと目を伏せ、それから顔を上げた。
「私も、まだ怖いよ。
でも、あなたと一緒にその“怖さ”を感じていけるなら、それが“恋”なんだと思える」
凌の表情が、ゆるんだ。
「……じゃあ、今から始めよう」
「何を?」
「“恋に踏み出す、その一歩”を。名前なんかなくても、ちゃんと“あなたと歩きたい”って思える関係を」
二人は、どちらからともなく歩き出した。
手はまだつながなかった。けれど、歩幅は自然と揃っていた。
その夕方、愛梨のノートにはこう記された。
《恋は、はじまりの瞬間がわからない。
でも、“この人となら、怖くても進める”と思えたとき、
それはもう“恋に踏み出した”ってことなんだと思う》
そして凌は、スケッチブックのページにこう書いた。
《たった一歩が、こんなにも遠くて、
でも、その一歩の先に“君”がいてくれるのなら、
この先は、全部進んでいける気がする》
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