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恋に踏み出す、その前に。──たった一歩が、こんなにも遠くて、愛しくて。  作者: 輝


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第38章 全部話したら、怖くなるから

  レジデンスの最終日が近づいていた。

  空気には、季節の移り変わりだけではない、“別れの予感”が満ちていた。

  その日の朝、谷川凌は静かな書斎スペースにいた。

  机の上には、開かれた封筒――水谷愛梨からの手紙。

  何度も読んだ。

  文字のひとつひとつが、彼の中で何度も何度も響いていた。

(ここまで言葉を尽くしてくれた人が、いたんだな)

  思えば、自分はずっと“話さないことで守ってきた”。

  説明するより、沈黙を選ぶことで、問題を回避しようとしてきた。

  でも、その“回避”が、誰かを傷つけていたのかもしれない。

(全部話したら、きっと壊れると思ってた)

(でも、話さなかったからこそ、大切なものが離れていったのかもしれない)

  あの日から、彼はずっと、心のどこかで“動く決意”を探していた。

 

  その頃、愛梨は荷物の整理を終えていた。

  スーツケースには、季節ごとに変わった衣類、共有で使っていた文具、そして――最後に、小さな封筒。

  それは、返事が返ってくるかどうかもわからない手紙に対して、自分なりに「終わり」を告げるための儀式だった。

  でも、心のどこかで、こうも思っていた。

(全部話したら、何かが壊れるかもしれない)

(でも、話さなきゃ、きっと何も変わらない)

 

  夕方。

  レジデンスのエントランス前。

  次々と出発する住人たちを、スタッフが見送っていた。

  その中で、最後まで残っていたのは――谷川凌と水谷愛梨だった。

  二人は、ロビーのソファで少しだけ距離を取って座っていた。

  けれど、互いに“何か”を言いそびれているのがはっきりと伝わってくる。

 

「……このまま、じゃあねって言ったら、私きっと、引きずると思う」

  愛梨が小さな声で切り出した。

「手紙、読んでくれてありがとう。……返事は、なくてもいい。

  でも、最後に一度だけ。……“あなたの言葉”で、話してほしい」

  凌はゆっくりと顔を上げた。

  少しの沈黙のあと、静かに口を開く。

「俺、ずっと怖かった。

  話したら嫌われるかもしれない、って思ってた。

  過去のこと、家族のこと、恋愛経験がなかったこと、……全部が中途半端で、言えなかった」

  愛梨は、何も言わず、ただ聞いていた。

「でも君は、“言わなくてもいい”って、何度も言ってくれた。

  だからこそ、今、言わなきゃいけないって思った」

  凌は深く息を吸った。

「……俺は、君がいない未来を考えるのが怖い。

  君がいないと、自分の正しさが揺らいでしまう。

  君と話していると、自分の未熟さを直視させられる。

  それが、時々、たまらなくつらかった」

  そこまで言って、ふっと笑った。

「でも、それでも一緒にいたいって思うんだ。

  君がくれる“気持ちの揺れ”が、今の俺には必要だから」

  愛梨は、じっと彼を見つめていた。

  頬にひとすじ、涙が伝っていた。

「……ありがとう。やっと、聞けた」

「遅くてごめん」

「遅くてもいい。……聞けてよかった」

 

  二人は、それ以上言葉を交わさなかった。

  けれど、その時間の中に、交わされた何百の思いがあった。

  “全部話したら怖くなる”と思っていたけれど、

  “全部話せたことで初めて始まるもの”もあった。

 

  その夜、愛梨は新幹線の中で手帳を開き、こう記した。

 《全部話せた。壊れなかった。

  むしろ、そのあとで見えたものの方が、ずっとあたたかかった》

 

  そして谷川凌は、スマホのメモに短く書いた。

 《まだ間に合う。伝えるだけで、世界は変わる。

  たとえ遅くても、それでも伝えたいと思えたことが、答えだ》


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