第37章 まだ、言ってないことがある
星見坂レジデンスに暮らす日々も、残すところあと三日。
いつもの時間、いつもの場所で交わしていた何気ない挨拶が、少しだけ特別な響きを帯び始めていた。
“また明日”が、“もうあと少し”になる。
それだけで、空気が変わる。
その日、共用リビングでは最後の「住人会議」が行われていた。
退去スケジュールの確認と、それぞれの次の進路の報告。
形式ばった内容の中にも、時おり寂しさと照れくささがにじむ。
「えー、私は研究テーマが通ったので、来月から都内の大学に戻ります!」
愛梨が手を挙げて告げると、小さな拍手が起こった。
「水谷さん、子ども相手のワークショップまたやってよ〜」
「絶対! 呼んで!」
「……考えておくよ。ちゃんと手伝ってね?」
そのやりとりに、空気が少しだけ和らいだ。
一方、谷川凌はあえて“進路”を詳細には語らなかった。
「地域支援に関わる部署へ。場所は、まだ調整中です」
そう短く言って微笑んだだけ。
それが、彼なりの“この場を濁さないやり方”だった。
会議が終わり、みなそれぞれの片付けに向かう中で、愛梨はそっと荷物の中から一枚の便箋を取り出していた。
白い封筒の中に入れられたその手紙。
宛名は書かれていない。
けれど――
誰よりも、渡すべき相手はわかっていた。
(このままじゃ、絶対後悔する)
言葉にしないと伝わらないことがある。
でも、言葉にできない感情もある。
その狭間で揺れる自分の想いを、どうしても“かたち”にして残したかった。
夜、リビングにそっと置かれたその手紙を、谷川凌は偶然見つけた。
いや、“偶然”ではなかったのかもしれない。
どこかで、手紙を受け取る未来を期待していた自分に気づいていた。
宛名のない封筒。封は閉じられていない。
中に入っていた便箋には、丁寧で揺れる筆跡で、こう書かれていた。
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谷川凌さんへ
この手紙は、たぶん“言葉にできなかった気持ち”の整理です。
私はずっと、“あなたが何を感じているか”を知りたいと思っていました。
でも同時に、“あなたが言葉にできないもの”に無理やり名前をつけることが、怖かった。
だから黙って、そばにいるだけにしていた。
でも本当は、あの日から――
“傘を差し出してくれた日”から、
わたしはあなたのことを、誰よりも信じていました。
「正しさ」で人を救おうとするあなたが、
誰よりも“不器用で、やさしい”ってことも。
“好き”って、何かを求める言葉じゃないんだね。
“相手がそのままでいてくれること”を、願う気持ちなんだって、ようやくわかりました。
恋人じゃなくても、大切な人はいます。
でも、私は――あなたのことを、ちゃんと“好きです”と伝えたかった。
言えなかった言葉を、ここに置いていきます。
どこかで、この手紙があなたの時間を邪魔しませんように。
水谷愛梨
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読み終えたあと、凌はしばらく動けなかった。
まるで、言葉そのものが心の奥の深いところに届いてしまったかのように。
(まだ、俺は何も返せていない)
(“ありがとう”も、“好きだ”も、“また会おう”も)
でも、確かに思った。
「このまま終わらせたくない」
その夜、愛梨はベッドの上で目を閉じた。
言葉はもう渡した。あとは、何も期待しない。
ただ、“自分が伝えられた”という事実だけを、大切にしようと決めていた。
だけど――
どこかで、まだ「言っていない何か」があるような気がしていた。
それは、彼もまた、同じように感じていた。
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