第36章 恋人じゃなくても、大切にしたい
六月の風は、まだ梅雨入り前の軽やかさを残していた。
星見坂レジデンスには、卒業を目前に控えた空気が、少しずつ広がりはじめていた。
“卒業”とは、この共同生活の終了を意味する。
契約期間は半年。すでに、その終わりが一ヶ月後に迫っていた。
その日、谷川凌はいつもより静かな共用リビングに一人いた。
資料の整理ではない。パソコンも閉じたまま。
ただ、目の前に置かれた一枚の封筒を見つめていた。
封筒の中には、次の赴任先――地方の地域活性化支援センターからの正式な辞令通知が入っていた。
星見坂を離れ、次の場所で再び「問題解決」と向き合う。
それが、彼に与えられた次の役割だった。
一方、水谷愛梨もまた、個室で自分の手帳を開いていた。
大学の研究室から届いた連絡。
興味を持っていた感情心理学の実践研究に携われるチャンスだった。
自分の“感情に敏い”という特性を、誰かの役に立てたい――
ずっとそう願っていた道の入口が、ようやく見えてきた。
だけど、心の奥にわだかまる想いは一つ。
(この場所を出たら、私たち……どうなるんだろう)
夕方。
共用キッチンでは、住人の何人かが「卒業パーティー計画」について話していた。
その会話の中で、さくらがぽろりと呟いた。
「ねえ、“卒業”って言葉、なんか寂しいよね。
“戻ってこれない”気がする」
その隣で、礼奈が小さくうなずく。
「戻れるかどうかは、気持ち次第。……でも、“今と同じ形ではいられない”のは確かですね」
その夜。
愛梨と凌は、偶然、屋上で鉢合わせた。
話すつもりはなかったのに、互いにそこにいた。
まるで、言葉を交わすタイミングを空が作ってくれたかのようだった。
「……ねえ、凌くん。もう、ここにいられる時間、そんなに長くないんだね」
「ああ。……それは、ずっと考えてた」
「わたしね、ふと思ったんだ。“恋人”にならなくても、あなたと一緒にいたいって」
凌は、少し目を細めて、彼女の顔を見た。
「それは、“恋人になりたくない”って意味じゃなくて、“関係に名前をつけなくても、大切にしたい”ってこと」
「……わかるよ。それ、俺も同じこと考えてた」
愛梨は、少しだけ笑って言った。
「わたし、不器用だった。気持ちを伝えるタイミングとか、形とか、いつも間違ってばかりで。
でもね、あなたが黙ってそばにいてくれたから、やっと“言葉にならない感情”も信じられるようになった」
凌は小さくうなずいた。
「俺も、君がいてくれたから、“名前のない関係”を怖がらなくて済んだ。
正しさじゃなく、心の形で繋がれることを、初めて知った」
二人は並んで腰を下ろし、夜空を見上げた。
星はまだまばらで、少し霞がかっていた。
でも、それでも“そこにある”ことは疑えなかった。
「……たとえばさ、離れ離れになったとしても」
愛梨がぽつりと言った。
「あなたがどこかで笑っていてくれたら、それだけで、わたしは大丈夫だって思える」
凌は、その言葉を静かに受け止めたあと、そっと呟いた。
「“恋人じゃなくても、大切にしたい”って気持ちが、ある種の“愛”なのかもしれないな」
その夜、二人は手をつながなかった。
キスもしなかった。
ただ、風の中で“想い”だけを重ねた。
それが、今の彼らにとって、いちばん自然で、いちばん誠実な距離だった。
その夜、愛梨のノートにはこう記された。
《恋人って、名前じゃない。
“どれだけ心が向いているか”が、きっとすべて。
あなたが遠くにいても、わたしは“あなたといた日々”を大切にできる》




