第35章 君がそばにいるだけで
季節がゆっくりと、春から初夏へと歩みを進めていた。
星見坂レジデンスの庭には、新芽が瑞々しい緑を見せ始め、穏やかな風が建物の中を通り抜けていく。
谷川凌は、共用ラウンジの窓際に座りながら、小さなスケッチブックを手にしていた。
いつの間にか彼の癖になっていた――水谷愛梨の勧めで始めた“何でもメモする”習慣だ。
そこに書かれているのは、議事録でも計画案でもない。
《今日、隣に彼女がいた。
言葉もないのに、十分すぎるほど安心した》
愛梨と自分が“恋人同士”なのか、まだ明確に定義されたわけではなかった。
けれど、それでもいいと思えた。
名前をつけない関係でも、隣にいることを選び続けられるなら、それで充分だった。
その頃、愛梨は中庭の花壇のそばにしゃがみ込み、草抜きをしていた。
あまり手先が器用な方ではないが、地道な作業は嫌いじゃなかった。
その横に、そっと影が差す。
「……手、出した方がいい?」
凌だった。
スニーカーの爪先に、ほんの少しだけ泥がついていた。
「ん、手伝ってくれるなら助かるよ。
……ていうか、そんな気軽に声かけてくれるようになったね」
「最近ようやく、“気持ちが先に動いていい”って学んだから」
愛梨はふっと笑った。
「そのセリフ、メモしておいた方がいいよ」
「もう書いてある」
「……はやっ」
二人は黙々と作業を続けた。
特に会話があるわけでもない。
でも、ふたりの間には“言葉がなくてもいい”静けさが流れていた。
手元の小さな雑草を抜きながら、愛梨はぽつりと呟く。
「……なんか、不思議。
“好き”って言葉を交わしてからの方が、前より静かなのに、前よりずっと安心してる」
「俺も。
たぶん、“確認しなくてもいい”って思えるようになったから、かもしれない」
「確認しなくても、って……?」
「君が、そばにいるって、もう疑わなくていいってこと」
それは、凌にとって“かつて最も苦手だった言い回し”だった。
不確かなものは、論理や証拠で裏付けたかった。
でも、愛梨と過ごす時間の中で、いつしか“言葉のない信頼”を信じられるようになっていた。
夕暮れ。
二人は並んでレジデンスのベンチに腰掛け、沈む太陽を眺めていた。
「……ねぇ、凌くん」
「ん?」
「私ね、ずっと思ってた。“誰かに必要とされたい”って気持ちが、恋の始まりなんだって」
「それは、間違ってないかも」
「でも今はね、“必要じゃなくても、君のそばにいたい”って思う。
何かを与えられなくても、君の隣にいていいって思えるの。……変だよね」
「……いや、全然変じゃない。むしろ俺も、ようやく同じ地点にたどり着いた気がする」
沈みゆく空に、ふたりの影が長く伸びる。
言葉にしなくても、手を握らなくても、
ただ隣にいるだけで、たしかな絆が存在していることを、ふたりは確かに感じていた。
その夜、凌のスケッチブックの最後のページに、こう記されていた。
《“好き”は時に不安を呼ぶけれど、
“そばにいたい”という気持ちは、もっと静かで強い。
君がそばにいるだけで、世界はちゃんと整っていく》
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