第34章 心を開くということ
共用ラウンジの午後は、いつもより少し静かだった。
住人の多くは地域活動に出かけており、室内にいるのは数人だけ。
その中で、渡邉理絵は静かに編み物をしていた。
小さな手袋の片方が編み上がったところで、ふと手を止め、遠くを見つめる。
(……これ、誰かにあげる予定だったっけ?)
特に誰にとは決めていない。
けれど、その“誰か”を思い浮かべていたことだけは確かだった。
ぼんやり浮かんだのは、河合龍也の顔だった。
いつも感情を大きく動かすことのない彼。
でも、誰かが困っていると、誰よりも早く手を差し伸べてくれる彼。
理絵は、そんな彼を“安心できる存在”として見ていた。
ただ、それが“恋”なのか、“信頼”なのか、自分ではうまく区別がつかなかった。
その頃、河合龍也は屋外の作業場で木材を切っていた。
作業のリズムは正確で、無駄がない。
けれど、心の中では一つのことが繰り返されていた。
(理絵さん……最近よく目が合う)
思い過ごしかもしれない。でも、何かが変わった気がしていた。
(あの人は、誰かを支えることが自然すぎて、“自分を出すこと”を忘れてしまっているように見える)
そう思うと、彼女の表情の裏にある本音が、知りたくてたまらなくなった。
(俺は、誰かの“支えになりたい”とは思わない。
ただ、“並んで立てる相手”がほしい。……もし、彼女がそれを望んでくれるなら)
その夕方、作業を終えた龍也は、ラウンジへと足を運んだ。
理絵がまだそこにいると知っていたからだ。
案の定、彼女は窓辺で静かに糸を巻いていた。
「……こんばんは」
龍也が声をかけると、理絵は少し驚いたように顔を上げた。
「あ……こんばんは。作業、おつかれさまです」
「ありがとう。……少し、話してもいいですか?」
彼女はうなずき、ふたりはテーブルの向かいに座った。
「……最近、よく目が合いますよね」
不意に龍也がそう言って、理絵は少しだけうろたえた。
「え……そ、そうでした?」
「俺だけだったら、すみません。でも、なんというか……気にしてくれてるのかなって、思ってました」
「……はい。気になってました」
はっきりと答えた自分に、理絵自身が驚いていた。
「あなたって、感情を外に出さない人ですよね。……でも、だからこそ、何を考えてるのか知りたくなるんです」
その言葉に、龍也は静かに微笑んだ。
「それは、俺も同じです。
理絵さんは、人の話を聞くのがうまい。でも、自分のことを話すのは、苦手ですよね」
理絵は、思わず口を閉ざす。
「俺、思うんです。心を開くって、誰かの言葉を待つことじゃなくて、自分の言葉を差し出すことなんじゃないかって」
理絵は、じっと彼を見つめてから、小さく息を吐いた。
「……怖かったんです。
ずっと、誰かの支えにならなきゃって思って生きてきたから。
自分のことを話すと、“役に立たない”って思われそうで」
「そんなこと、思う人はいません。
少なくとも、俺は……理絵さんが心を開いてくれたら、それだけで“信じてもらえた”って思います」
しばらく沈黙が流れた。
そして、理絵が小さな声で言った。
「私、支えることしかできないって思ってたけど、誰かに“支えてもらいたい”って思ってもいいのかな」
「もちろん、いいと思います。……じゃあ今度は、俺が支えますよ。
理絵さんが誰にも言えなかったこと、ゆっくり話せるようになるまで、ちゃんと隣にいます」
その夜、理絵はようやく自分のノートにこう書いた。
《“心を開く”って、“誰かに見られること”じゃない。
“誰かを信じて、自分を見せていくこと”。
その第一歩を、今日やっと踏み出せた気がする》




