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恋に踏み出す、その前に。──たった一歩が、こんなにも遠くて、愛しくて。  作者: 輝


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第33章 バランスを崩したのは、君のせい

  夕暮れの星見坂レジデンス。

  共用キッチンでは夕食の支度が始まり、住人たちが自然と集まり始めていた。

  その中に、友坂拓矢の姿もあった。

  淡々と作業をこなすその様子はいつもと変わらぬように見えたが、表情はどこか浮かない。

  彼の頭の中には、ある“ひとこと”がずっと残っていた。

 ──「信じてるよ、だから、ちゃんと見ててね」

  数日前、戸野ほのかがそう言って笑った。

  信じる、という言葉。

  それを向けられることに、まだ慣れていなかった。

(あの言葉に応えるには、俺はまだ信用が足りない)

  誰かに「ちゃんと見てるよ」と言われたことが、今までほとんどなかった。

  だからこそ、信用を“得る側”になることの重みが、拓矢を萎縮させていた。

 

  一方その頃、リビングの隅では、戸野ほのかが拓矢の背中を見ていた。

(変だな……最近、目を合わせてくれない)

  会話が途切れることはない。

  だけど、その中に“熱”がなくなったように思える。

  あの夜、手をつないだとき。

  たしかに心は通じ合っていた。

  けれど、その後の彼は、まるでまた“壁の向こう”に戻ってしまったように感じていた。

 

  その夜、偶然にもふたりは、共用ベランダで鉢合わせた。

  外気はひんやりとしていて、会話を始めるには絶妙に難しい温度だった。

「……ひさしぶりに、ちゃんと話すね」

  先に口を開いたのは、ほのかだった。

「……ああ」

  その返事に、思わず彼女は肩をすくめた。

「ねえ、どうしたの? なんで、また“遠ざかって”るの?」

「……」

「わたし、そんなに重かった?」

  その問いかけに、拓矢の目が揺れた。

「違う。……違うんだ。ただ、あの夜からずっと、自分の中のバランスが崩れてる」

「バランス?」

「うん。君が“信じてる”って言ったあの日から、俺の中の秩序が……うまく噛み合わなくなってる。

  誰にも信じられていなかった自分が、“信じてもらえる”側に立ったことで……怖くなった」

  ほのかは、静かに聞き続けた。

「言葉にするのが怖い。“信じる”って、そんなに簡単じゃない。

  でも君は、まっすぐ信じてくれた。……だから、俺は君に見合う自分になろうとして、必死になって、余裕をなくした」

「それって……“好き”ってことだよ」

  拓矢の目が見開かれる。

「うん、もう知ってるよ。あなたが不器用なのも、思い詰めるタイプなのも。

  でもね、私、ちゃんと見てる。がんばってること、迷ってること、逃げたくなることも。

  だから、もう少し“崩れててもいい”って、思ってほしい」

  彼女はゆっくりと手を伸ばし、拓矢の手に触れた。

「バランスを崩したのは、私のせいでいい。

  でもね、それは“壊した”んじゃなくて、“変えた”だけ。だから、もう怖がらないで」

 

  その言葉は、今まで彼が誰からももらえなかった種類の優しさだった。

  拓矢は、小さく頷いたあと、初めて彼女の手を強く握り返した。

「……ありがとう。ちゃんと受け止めるよ。

  君が、俺のバランスを崩してくれてよかった」

 

  その夜、ほのかは自室のノートにこう記した。

 《“バランスを崩した瞬間”にしか見えない景色がある。

  その景色を、誰かと一緒に見られるって、なんて贅沢なことだろう》


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