第31章 好きと伝える勇気がない
陽射しがやわらかく差し込む午後のラウンジには、レジデンスの住人たちの談笑が穏やかに響いていた。
カップが重なる音、笑い声、メモのページをめくる音。そのすべてが、日常の一部としてそこにあった。
谷川凌と水谷愛梨は、その輪の少し外側にいた。
向かい合って座りながらも、ふたりの会話はなかった。
あの日――屋上で“好き”を伝えてから数日。
それまで曖昧だった距離は確かに縮まり、ふたりは“気持ちを交わした”という実感を得ていた。
それなのに、次の一歩が踏み出せないままだった。
“恋人”として明確に関係を定義するでもなく、誰かに公に話すわけでもない。
見た目は以前と変わらぬ日常の中で、ふたりの心だけが静かに変化していた。
「……最近、よく話しかけられるようになったね」
愛梨が、カップを揺らしながら口を開いた。
「うん。俺が変わったって、皆が思ってるらしい」
「事実、変わったと思うけど?」
「変えたのは、君だけどね」
その言葉に、愛梨は少しだけ目をそらした。
照れ隠しでも、曖昧でもない。
“ありがとう”を言葉にする前に、胸がいっぱいになった。
その日の夕方。
リビングでは、未奈とさくらが話し込んでいた。
「で、結局どうなってんの? あのふたり」
「えっとね、“伝え合った”らしいよ。でも……まだ“付き合ってます”とは言ってないんだって」
「も〜〜どこまで奥手なんだか……。
でも、そういうの、ちょっと……うらやましいかも」
さくらは照れくさそうに笑った。
夜。
愛梨は自分の部屋のベッドで、天井を見つめていた。
凌の言葉を、何度も何度も思い出していた。
――「俺は、君が好きだ」
その一言だけで、どれほど救われたか、いまだにうまく言葉にできない。
だけど、ふとした瞬間に思う。
(わたし、ちゃんと“好き”って言えたっけ?)
凌は、勇気を出して伝えてくれた。
そのとき、笑って答えた気がする。でも、明確な言葉で“私も好きです”って返した覚えは……ない。
(もしかして……私も、怖がってる?)
“好き”と伝えることで、何かが変わってしまうのではないかという不安。
壊れはしないだろうけど、たしかにその一言には、重みがある。
(でも――)
彼があれほどの不器用さと真面目さで、ようやく一歩踏み出してくれたなら。
今度は、自分が返す番だと思った。
翌朝。
いつもの時間、いつもの場所で、凌はリビングにいた。
静かにコーヒーを飲みながら、資料に目を通している。
そこへ、愛梨がふらりと現れた。
「おはよう」
「おはよう。……朝から、いい天気だな」
「うん。……ちょっと、外歩かない? 五分だけでも」
「いいよ」
二人は、レジデンスの裏手にある細道を並んで歩いた。
朝露が残る地面を踏みしめる音が、ふたりの会話の代わりになった。
「ねぇ、凌くん」
「うん?」
「わたしね。……“好き”って言葉、怖くてずっと口に出せなかった」
凌は、彼女の横顔を見つめる。
「でも、それじゃだめだと思って。あなたが勇気を出してくれたから、今度は私がちゃんと伝えたいと思った」
彼女は、立ち止まってこちらを向いた。
「好きだよ、凌くん。――わたしも、ちゃんと、あなたが好き」
その一言は、風の中でも確かに聞こえた。
凌の顔に、ゆっくりと笑みが浮かぶ。
「……ありがとう」
たったそれだけで、互いの心のなかにあった“不安”がすっと溶けた気がした。
言葉にした瞬間、何かが壊れるのではないか――
そんな恐れは、もう過去のものだった。
“好きと伝える勇気”が、ふたりを次の景色へ連れていこうとしていた。




