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恋に踏み出す、その前に。──たった一歩が、こんなにも遠くて、愛しくて。  作者: 輝


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第30章 強がる心が、君に追いつかない

  夜の帳が降りるころ、星見坂レジデンスのリビングには微かな明かりだけが灯っていた。

  水谷愛梨は、ソファにひとり座っていた。膝にはひざ掛け、手には温かいカモミールティー。

  けれど、心は冷えたままだった。

  谷川凌と話した日の記憶が、何度も彼女の中で再生されていた。

(“まだ好きって言えない”……その気持ちはわかるつもりだった)

(でも……やっぱり、苦しかった)

  “今の関係を壊したくない”。

  その気持ちが強いからこそ、彼は言葉を選び続けているのだと理解していた。

  でも、理解と安心は違う。

  理解できても、安心はできなかった。

(ずるいよ、凌くん。わたしばかり、気持ちを置いてきぼりにされてるみたいで)

  だけど、そう思う自分にも腹が立つ。

  彼の不器用さを知っているのに。焦らせたくないと思っていたはずなのに。

(わたしの“強がり”が、彼の不安を加速させてるだけなんじゃないか)

 

  その夜、ふと思い立って、愛梨は自分の部屋から古いアルバムを取り出した。

  ページをめくると、小さな頃の自分と、家族の姿が並んでいる。

  そこには、少し前まで誰にも話せなかった“記憶”が詰まっていた。

 

  小学生の頃。

  父と母の間に立たされることが多かった。

  父の機嫌をとるために、母の感情を隠した。

  母の涙を見ないために、言葉を飲み込んだ。

  “自分が何を感じているか”より、“どう振る舞うべきか”ばかりを考えていた。

  だからこそ、愛梨は“感情で共感を生む”ような性格になっていったのかもしれない。

  自分を押し殺して、他人の気持ちに合わせることだけが、人間関係の正解だと思い込んできた。

  そして、いつの間にか“自分が誰かに甘える”ことを、どこかで諦めていた。

 

  ふいに涙がこぼれた。

  愛梨は手帳を開き、震える文字で綴った。

 《強がることでしか、自分を守れなかった。

  でも、それじゃ……凌くんの隣には立てない》

 

  翌朝。

  朝食の時間を過ぎたレジデンスのラウンジ。

  珍しく、愛梨の姿がそこになかった。

 

  一方、谷川凌は資料の整理をしながらも、頭の中がどこか上の空だった。

(昨日、何かを伝えたはずなのに、伝わっていないような気がする)

  言葉では“好き”と言えなかったけれど、それでも彼なりに「覚悟」を込めたつもりだった。

  それが、彼女の心にどう届いたのか――それがずっと引っかかっていた。

  そこへ、鳥澤礼奈がコーヒーを片手に近づいてきた。

「……水谷さん、今朝ちょっと様子がおかしかったですよ。屋上にいましたけど、すぐ戻っていきました」

「……ありがとう」

  凌は立ち上がり、ファイルを机に置いたまま、屋上へ向かった。

 

  屋上では、愛梨がひとり、風に吹かれていた。

  ノートを抱えたまま、空を見上げている。

  その姿は、どこかいつもより小さく見えた。

「……愛梨」

  呼びかけると、彼女はゆっくり振り返った。

「……凌くん」

  ふたりの距離は、わずかにあった。

  でも、その数歩が、今までで一番遠く感じた。

「昨日のこと、ずっと考えてた」

「……うん」

「“好きだ”って言えないこと、責めるつもりはない。でも……私ね、“わたしばっかり頑張ってる”って、昨日の夜、ちょっとだけ思っちゃった」

  凌は、何も言わず聞いていた。

「わたし、昔から自分の気持ちを後回しにしてばっかりだった。

  だから、今だけはちゃんと、“好きだって言われたかった”。……わがままだよね」

「……わがままなんかじゃない」

  凌は、少し息を詰めたあと、一歩だけ前へ出た。

「俺は、ずっと“言えるタイミング”を待ってた。でも、言葉が完璧にならなきゃ伝えられないと思ってたのは、ただの逃げだった。

  昨日、君が泣いていたかもしれないって想像したら……怖くなった」

  そして、深く息を吸い込んで言った。

「水谷愛梨。……俺は、君が好きだ」

  その言葉は、静かに、でも確かに届いた。

 

  愛梨の目に、ぽろりと涙が浮かんだ。

  でも、笑っていた。

「……それ、ずっと聞きたかったよ」

「俺も、ずっと言いたかった」

 

  風が吹いた。

  ようやく届いた言葉と、強がりの仮面を外したふたりの心が、静かに重なっていく。


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