第3章 傘を貸したのは偶然だった
雨の朝だった。
星見坂レジデンスの大きな窓に、雨粒が規則正しく打ちつけられている。
町全体がうっすらと水の膜に覆われたように、景色がにじんでいた。
谷川凌は、玄関脇の掲示板を確認しながら、着てきたジャケットの裾をきちんと整えた。
今日は地域の児童館でのボランティアの日。メンバーの中から数人が参加予定だ。
「水谷さん、傘は?」
同じく予定表を確認していた愛梨が、掲示板を指さしながら声をかけられたのは、隣にいたさくらからだった。
「……あ」
返事をした愛梨は、自分のバッグをのぞきこみ、傘を持っていないことに気づく。
今朝は曇ってはいたが、出かける時点ではまだ降っていなかった。朝の天気予報も見逃していた。
「まぁ、ちょっとぐらい濡れてもいいかな……」
愛梨はそう言って笑ったが、さくらが少し不安そうな顔をした。
「風も出てきてるし、冷えるかもよ?」
「大丈夫。すぐそこだし」
そう言って玄関のドアを押した瞬間、思っていた以上の雨風が、前髪を吹き上げた。
(あー……これは、ちょっと失敗だったかも)
愛梨が扉を閉めようとした、そのときだった。
──す、と。
横から一振りの傘が、彼女の視界に差し出された。
白地に細い青のラインが入った、男女どちらが使ってもおかしくないデザイン。
持ち手に細かい水滴が残っている。
「使え」
声の主は、谷川凌だった。
傘の主を確認した愛梨は、一瞬だけ戸惑い、それから静かに言った。
「あなたのじゃないの?」
「俺は今日は児童館には行かない。戻る頃には止むだろうし、必要ない」
「……でも、別に傘忘れたぐらい、どうってことないよ。こんなことで“配慮不足”とか思われたくないし」
「思ってない」
言い切るように返されて、愛梨はかすかに息を飲む。
凌の表情に、皮肉も咎めもない。ただ事実として差し出した──そんな風に見えた。
「……ありがとう」
小さく、けれどはっきりとそう言って、愛梨は傘を受け取った。
扉を開け、足元に気をつけながら外に出る。
頭上にある傘から、雨粒が軽くはじける音がした。
背後ではもう、凌がその場から離れようとしていた。
(なんで、あんなふうにできるんだろう)
心を許しているわけでも、親しいわけでもない。
それなのに、あの人の行動には妙に“自然さ”がある。
(あの人にとって、これは「ただの正しい行動」なのかな)
それとも、もっと別の何か──
そう考えた瞬間、愛梨は自分の中にほんの小さな熱を感じた。
児童館での活動は、予想外に充実していた。
近隣の子どもたちと一緒に手遊びをしたり、読み聞かせをしたり。
愛梨は最初こそ距離感を掴めずにいたが、ある女の子に話しかけられてから、次第に笑顔が自然にこぼれるようになっていた。
「ねえ、おねえちゃんの髪の毛、やわらかい!」
「ほんと? ありがとう」
「わたし、髪の毛あんまりきれいじゃないから、きらいだったの。でも、おねえちゃんみたいなの、なりたいなって思った!」
そんなまっすぐな言葉に、愛梨は驚き、そしてほんの少し目が潤んだ。
誰かに“まっすぐな好意”を向けられることの温度。それは、理屈を飛び越えて心に届いてくる。
活動が終わって帰る頃には、空はすっかり明るくなり、濡れた道路に夕陽が差し込みはじめていた。
傘はもう不要だった。
けれど、持って帰るそれを愛梨はなんとなく丁寧に畳み、傷つけないよう気をつけた。
夕食後、ダイニングで一息ついていた凌の前に、愛梨がそっと傘を差し出した。
「ありがとう。おかげで濡れずにすんだ」
「そうか」
短い返事だったが、凌は一応それを受け取った。
「でも、ああいうの、意外だった」
「何が」
「あなたって、もっと“人のことは人の責任で”ってタイプかと思ってたから」
「そう思っていたなら、それでいい」
「──ほんと、不器用だね」
そう言って、愛梨は小さく笑った。
凌は何も返さなかったが、その口元がほんのわずかだけ、緩んだようにも見えた。
その日、愛梨は日記アプリにこう書いた。
《今日、傘を貸してくれた人がいた。ただの偶然かもしれないけど、その一手が、なんとなく今でも頭から離れない》
そして、もう一行だけ──
《こういう気持ちを“特別”だと感じた時点で、もう私は、少しだけ変わり始めてるのかもしれない》