第29章 踏み出せない一歩
それは、穏やかすぎる午後だった。
レジデンスの共有リビングには誰の声もなく、風がカーテンを揺らし、ガラス越しに淡く光が射していた。
谷川凌は、窓辺に腰掛け、読みかけのファイルに目を落としたまま、まるで時が止まったかのように動かなかった。
先日のあの告白の余韻は、まだ彼の中で色濃く残っていた。
――「私は、谷川凌という人間を、好きだと思っています」
あの言葉を受け取った瞬間、胸の中に確かに何かが芽吹いた。
それなのに、自分の口から返せたのは、感情ではなく“理解”だった。
(あれが……精一杯だった。たぶん、今の俺には)
“好き”という言葉が怖いのではない。
言葉にしてしまうことで、これまで築いてきた何かが崩れてしまうのではないか――
その一歩の先にある“変化”が、何より怖かった。
(今の関係が心地いいのに、それを“恋人”という言葉で壊したくない)
それはまるで、完成しかけたパズルの中央に、最後のピースをはめ込むことを躊躇うような感覚だった。
その夜。
愛梨は屋上にいた。
静かな空に星が瞬き、遠くで聞こえる街の音が不思議と心地よかった。
手に持ったノートには、今日の出来事がいくつか記されていた。
その下に、ふと書きかけて、ペンが止まった一行がある。
「あの人の言葉がほしい」
それは、彼女にとって“望んではいけない”とずっと思っていた感情だった。
凌は、自分にとって特別な存在になっていた。
けれど、それを言葉にして返してくれないことで、愛梨は今、“待つこと”しかできなかった。
(言葉がなくてもいいって、思ってたのに……)
けれど、心は正直だった。
その数日後。
レジデンスのリビングで、谷川凌と水谷愛梨は久しぶりに二人きりになった。
タイミングを見計らっていたわけではなかった。けれど、誰もいないその空間に、ふたりは自然と向き合うように座った。
「……この前の話だけど」
凌が切り出した。
愛梨は一瞬だけ視線を泳がせたが、うなずいた。
「うん」
「俺……まだ“好き”って、言えないんだ」
その言葉に、愛梨はすこしだけまぶたを伏せる。
でも、それ以上は何も言わなかった。
沈黙が落ちた。
凌は、拳を握ったまま続けた。
「だけど、言葉にしなくても、君のことを考えてる時間が増えてる。
何かを決めるとき、“君だったらどうするか”って、思うようになってる。
……それって、もう“恋”だと思ってる。でも、怖いんだ」
「怖い?」
「この一歩を踏み出して、もし関係が変わって、失うものがあったらと思うと……
“踏み出せない自分”がいるんだ」
その告白は、決して逃げではなかった。
“自分の弱さを正直に差し出した”精一杯の誠意だった。
愛梨は、しばらく沈黙したあと、微笑んだ。
「……それ、ちゃんと言ってくれてありがとう」
「え?」
「あなたは、何も言わないまま私を遠ざける人じゃないって、信じてた。
ちゃんと“言葉にできない”って言葉にしてくれる人だって、信じたかった」
そして、そっと続けた。
「私も、怖いよ。あなたとの関係が変わって、壊れてしまうんじゃないかって。
でも、それでも――」
彼女は、ほんの一瞬、目をそらしたあと、もう一度まっすぐ彼を見る。
「“一歩を踏み出した先”で、あなたと並んで歩けたらって、思ってる」
それは、彼のために置かれた“待つ言葉”ではなかった。
彼のとなりに立つために踏み出す、彼女自身の“覚悟”だった。
その夜。
凌はようやく、机の上のノートに一行だけ書き残した。
《好きだと言えない自分を、彼女は理解しようとしてくれた。
だから、俺も“言える日”を怖がらずに迎えたいと思う。》
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