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恋に踏み出す、その前に。──たった一歩が、こんなにも遠くて、愛しくて。  作者: 輝


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第28章 恋は、どこかにあるものじゃない

  春の終わりが近づいていた。

  星見坂レジデンスの周囲では、淡く咲いていた花々が風に吹かれて舞い、初夏の気配を運んでいた。

  水谷愛梨は、その風を頬で感じながら、施設の裏手にある小さな休憩所にいた。

  ベンチの上には、ほのかに陽を吸った白いノート。

  最近書き始めた“生活記録”のようなもので、日々の出来事を一言ずつ、箇条書きで書き留めている。

  その一行に、彼女は今日、こう記した。

 《気づいたら、好きになっていた。》

 

  「好き」という言葉は、ずっと彼女にとって“危ういもの”だった。

  期待させてしまう。誤解を生む。責任を負う。

  けれど、“恋に落ちた”という瞬間はなかったはずなのに、ふと気づいたら“この人の隣にいたい”と思っていた。

(恋って、どこかに“あるもの”じゃないんだな)

  “探すもの”でも“出会うもの”でもなく、気づいたら「なっていた」。

  そのことが、少しだけ誇らしく、少しだけ怖かった。

 

  そのとき、足音が近づいた。

「ここにいたんだな」

  谷川凌だった。

「ごめん。さっき、探してた。……これ、今朝の会議資料。配り忘れてたから」

  そう言って、ファイルを手渡す。

「ありがとう。でも、わざわざそれだけのために?」

「……ついでに、話がしたくなった。

  いや、“君と話したい”って思ってる自分に、気づいてしまったから来た、が正確かな」

  愛梨はその言葉に目を丸くして、それから少し照れくさそうに笑った。

「じゃあ……私も告白するね。今日、ふと気づいたの。“好きになってた”って」

「……それは、“今、伝えてくれた”って意味で受け取っていいのか?」

「うん。好きになった“日”なんて思い出せないけど、今なら自信を持って言える。

  “私は、谷川凌という人間を、好きだと思っています”」

  その言葉に、凌は静かに目を閉じた。

  風が通り、ベンチの脇で小さくノートのページがめくれた。

「俺は、“恋は構造化できる”と思ってた。好意は行動の積み重ねで、パターン分析が可能なものだと」

「……うん、あなたらしい」

「でも、君との関係だけは、どこにも当てはまらなかった。理屈が通用しなくて、何度も混乱した。

  でも、それでも“今ここにいたい”って思えたことが、俺にとって一番の答えだった」

  愛梨の胸が、ふっと熱くなる。

「恋って、始まりも終わりも曖昧で、だからこそ尊くて、難しいんだね」

「だからこそ、一緒に考えていける相手が欲しかった。君が、そうだった」

  その言葉のあと、ふたりの間に沈黙が流れた。

  けれど、それは気まずさではなく、“わかりあった後”のやさしい静けさだった。

 

  「ねえ、凌くん」

「ん?」

「今のこの瞬間って、“恋人”なのかな?」

「……定義の問題か?」

「もう、そういうところが好きなんだってば」

  愛梨は、笑いながら小さく首を振った。

「でもね。私たちは、“恋に落ちた”んじゃなくて、“恋になってた”って思う。

  ちゃんと積み重ねて、辿り着いたものだから」

「……その定義、俺も気に入った」

 

  その夜、ノートの最後のページに、愛梨はこう記した。

 《恋は、どこかに落ちているものじゃなかった。

  ひとつひとつ選んだ言葉と、重ねた時間が、

  やがて“恋”という名前を持ち始めただけだった。》


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