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恋に踏み出す、その前に。──たった一歩が、こんなにも遠くて、愛しくて。  作者: 輝


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第23章 恋は勝ち負けじゃないけれど

午後三時を回った共用ラウンジでは、春の陽射しが木の床にやさしく射していた。

そこに置かれた折りたたみ式のパネル展示用フレームに、沢田翔大が次々と資料を貼っていく。

明日の地域開放イベントの準備が大詰めを迎え、居住者たちはそれぞれの担当に追われていた。

「翔大くん、こっちの面も貼り方そろえてくれる?」

声をかけたのは、伊織未奈。

数日前のやり取り以来、必要以上に距離をとらなくなったが、どこか“終わりを告げた関係”の静けさが残っていた。

「了解。……そっち、掲示の順番はどうしてる?」

「テーマ別に並べてる。時系列より、“どう見られたいか”を重視した方がいいと思って」

「なるほど。……さすが」

未奈は笑わず、翔大の目を見て、静かにうなずいた。

その姿に、彼は何かを悟るように小さく息を吐いた。

(もう、ちゃんと向き合わないといけない)

翔大の視線は、自然と部屋の奥――水谷愛梨の方へ向いた。

彼女は谷川凌とともに、受付カウンターの最終設計図を確認している。

笑い合っているわけではない。だが、二人のあいだには、他人には入り込めない“空気”が確かにあった。

(俺が、愛梨の笑顔を見て好きになったように。

凌も、気づいていないだけで……)


夕方。

翔大は、建物裏の喫煙所横にあるベンチに一人腰を下ろしていた。

未使用のコーヒー缶を手のひらで転がしながら、愛梨を待っていた。

やがて、足音が近づき、愛梨が現れた。

「……どうしたの? 呼び出しなんて、珍しいね」

「ちょっとだけ、話がしたくて」

二人は並んでベンチに座る。

風の音と、遠くで子どもが遊ぶ声だけが響いていた。


「俺……最初に“好きかも”って思ったの、君の笑い方だった」

「……うん」

「人見知りなのに、子どもにはあんなに自然に話しかける君が、眩しかった。

多分、俺にはできないことだったから」

「ありがとう。……うれしいよ」

「でも、それと同時に、自分は“そこまで届かないな”って、わかった」

愛梨は驚いたように顔を向けた。

「……どういう意味?」

「たぶん、君が本当に笑うときって、“誰かと目線を合わせられる人”といるときだと思うんだ。

俺は、君の感情に触れたかった。でも、凌は君の感情を“自然に引き出して”た。無意識で、当たり前のように」

「……それって、勝ち負けじゃないよ?」

「うん。わかってる。“恋は勝ち負けじゃない”って、頭では理解してる。

でも、やっぱり、“負けた”って感じる自分がいるのも、本当なんだ」

その正直さに、愛梨はしばらく言葉が出なかった。

だが、やがて、真っ直ぐに向き合った。

「翔大くんは、ずっとまっすぐだったよ。誰かの役に立とうとして、行動して、自分の気持ちにも嘘をつかない。……そんな姿、見てて私も救われた」

「……ありがとう。でも、それでもやっぱり、俺の気持ちは“届く役割”じゃなかったんだよな」


二人の間を、風がそっと通り抜けた。

「……この気持ちは終わらせる。でも、無かったことにはしない。君がいてくれて、俺は本当に成長できたから」

愛梨は、目を伏せたまま、小さく頷いた。

「……わたしも、忘れない。あなたがくれたまっすぐさ。

それがなかったら、私は“恋と向き合う自分”を見つけられなかったかもしれないから」

それは、静かで潔い別れだった。

告白はなかった。

だけど、そこにあった想いは、紛れもなく“ひとつの恋”だった。


夜。翔大は一人、レジデンス裏の見晴らし台にいた。

手帳の片隅に、小さく書いた。

《恋は勝ち負けじゃない。でも、“負ける恋”があることで、人は強くなれるのかもしれない。》


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