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恋に踏み出す、その前に。──たった一歩が、こんなにも遠くて、愛しくて。  作者: 輝


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第22章 風が吹くまま、君の隣で

  星見坂レジデンスの丘のふもとにある、共同作業用の小さな畑。

  春風がさやさやとうねの間をすべり、野菜の葉を揺らしている。

  その畑の片隅に、水谷愛梨と谷川凌の姿があった。

  今日の作業割りで、偶然ふたりは同じチームになった。いや、偶然というより――誰かが気を利かせた結果かもしれない。

「スナップエンドウ、もう収穫いけそうですね」

「うん、見て。さやが膨らんでる。……これ、食べ頃だよ」

  愛梨は小さなハサミを使って一つ一つ丁寧に収穫していく。

  凌はその隣で、無言でかごを支えていた。

  言葉は少なかったが、気まずさは不思議と感じなかった。

  むしろ、以前より自然な距離感があった。

「……昨日の雨、止んでよかったね」

「天気の読みは、七割外れない」

「さすが“計画至上主義”」

「訂正。“最近は”風の流れで考えるようになった」

「……あ、それちょっと好きかも」

  愛梨は、いたずらっぽく笑った。

  凌も、口角をほんのわずかに上げる。

  風が吹いた。

  ふたりの髪が軽く揺れ、しゃがんだままの姿勢でふと視線が重なった。

「ねえ、凌くん」

「……ああ」

「何も話さなくても平気って思える時間が、少しずつ増えてる気がする。……これって、変化だよね?」

「変化だと思う。たぶん、俺が一番それを感じている」

  言葉に熱はなかった。でも、確かに“誠実”だった。

「正しさを疑ってから、君と話すことが楽になった。……“正しい”じゃなくて、“一緒に考える”に変わったからかもしれない」

  愛梨はしばらく黙っていたが、やがて、収穫した莢をそっとかごに置きながら呟いた。

「わたしね、誰かと何かを決めることが、ずっと怖かった。

  自分の選択が“正しくなかった”らどうしようって、そればかり考えてたの」

「……それは、俺と同じだ」

「うん。でも、最近は、答えよりも“決め方”が大事なのかもって思い始めてる。

  あなたと一緒にいると、そう思える」

  風がまた吹いて、陽射しが雲間から少しだけ顔を出す。

  凌は、そっと地面に座り込んだ。

  愛梨もその隣に腰を下ろす。畑の中心で、ふたりは並んで空を見上げた。

「空って、不思議だよね。境目なんかないのに、なんとなく“ここから晴れ”とか“ここから曇り”って思っちゃう」

「それは、“見た側の判断”だな。境界線はないけど、“違い”は確かにある」

「……まるで私たちみたいだね。境界はあいまいだけど、前とは違う」

  凌はうなずく。

「前は、“恋”って何かがはっきりしないと不安だった。

  でも今は……“この感情に名前がつかなくても”、十分大事に思える」

「うん、わたしも。……風が吹くままに、隣にいられるのが、今はすごく嬉しい」

 

  その日の夕方、共用キッチンでは収穫した野菜で簡単なサラダがつくられた。

  食卓には他のメンバーも集まり、自然と笑顔が増えていた。

  愛梨と凌は隣同士に座っていたが、特別な会話はしなかった。

  ただ、それぞれの皿にエンドウをよそい合う、そのささやかな動作が、何より“信頼”を感じさせた。

 

  夜。

  愛梨は日記アプリを開き、静かに指を動かす。

 《名前のつかないこの時間が、

  誰よりも“今の私たち”を表している気がする。

  言葉にしなくても、ただ隣にいられることが、どれほどの奇跡か、少しずつわかってきた》


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