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恋に踏み出す、その前に。──たった一歩が、こんなにも遠くて、愛しくて。  作者: 輝


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第20章 あなたの「正しさ」が、私を傷つけた

  日曜の朝。星見坂レジデンスの共用キッチンには、珍しくぴんと張りつめた空気が流れていた。

  谷川凌と水谷愛梨が対面で立っていた。

  朝食当番の引き継ぎをめぐって、些細な言い争いがあったのだ。

「君が無断でシフトを変更したことは、事前調整を無視する行為だ」

「でも、昨日の変更、他の人は了承してくれたし、急な体調不良だった子の代わりを引き受けただけだよ?」

「だからこそ、なおさら“全体への通知”が必要だった。感情的な善意で行動しても、秩序が崩れては本末転倒だろう」

  その言葉に、愛梨の顔が曇った。

「……ねぇ、あなたは、何かを“守る”ために人を押しつけることが、“正しさ”だと思ってるの?」

「押しつけたつもりはない」

「でも、わたしは、あなたの“正しさ”に、ずっと押し込められてる気がしてた。

  “こうあるべき”って枠に合わせなきゃ、価値がないみたいに言われてるようで……苦しかった」

  凌の瞳に、静かな衝撃が走る。

  それは、彼が最も避けたかった言葉だった。

  “誰かを傷つける正しさ”――

  それは、彼がかつて家庭の中で何度も見てきたものだ。

  父は常に理屈で母を抑え込み、「間違っていないこと」がすべての免罪符になっていた。

  そんな姿に嫌悪し、否定してきたはずなのに、自分もまた、同じ道を辿っていたのかもしれない。

「……すまなかった」

「謝ってほしいわけじゃない。……ただ、わたしも苦しかったってこと、知ってほしかっただけ」

  そう言った愛梨の目には、涙はなかった。

  それでも、声の奥に宿る震えが、どれほどの迷いと痛みを孕んでいたかを物語っていた。

 

  午後。

  愛梨は一人で丘の上の公園にいた。

  ベンチに座り、持ってきたスケッチブックを膝に置いたまま、風に吹かれていた。

  描く気にはなれなかった。

  けれど、描かずにはいられないような、心のざわめきがそこにあった。

(わたしが感じていたものは、全部“わがまま”だったのかな)

(わたしが彼に求めていた“優しさ”って、もしかして“ルールを捨てて”って言ってたようなものだったのかも)

  “正しさ”と“思いやり”は、両立できないのか。

  そんな問いが、頭の中をぐるぐると巡る。

  そこへ、足音が聞こえた。

  振り向かなくてもわかる。谷川凌だった。

「……すまない。言葉にするのが遅すぎたかもしれない」

  愛梨は、黙ったままだった。

「俺が大切にしてきた“正しさ”は、誰かを守るためのものだった。

  でも、それが君にとって“檻”だったのなら……俺は、自分の在り方を見直さなければいけない」

  凌の声は、どこまでも静かで、どこまでも真剣だった。

「君が、誰かのために動いていたこと、ちゃんと見えてなかった。

  君の“やさしさ”は、理屈じゃ測れないものだったのに、それを“手続き”に当てはめようとした俺が、間違っていた」

  愛梨はゆっくりと顔を上げた。

「……わたしも、自分の気持ちばかりで動いてたのかもしれない。“共感”で人を動かそうとして、無理させてたのかも」

  互いの言葉は、どちらが悪いと決めるためのものではなかった。

  ただ、理解し合うための道を探していた。

 

「正しさも、やさしさも、時に人を縛る」

「でも、それを“選び直す”ことも、できるんだよね」

  風が吹いた。

  ふたりの髪を揺らし、沈黙をやわらかく包む。

「……君となら、変われる気がする」

「うん。わたしも、そう思ってた」

  それは告白ではない。

  けれど、確かに“恋に近づいた”瞬間だった。

 

  その夜。

  愛梨は久しぶりにスケッチブックを開いた。

  描いたのは、二人が座った公園のベンチ。

  その隣に並ぶ、まだ輪郭の定まらない“誰かの姿”。

 《正しさの向こうで、あなたと並んで笑えたらいい。》


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