第2章 規則、ルール、そして無関心
星見坂レジデンスでの共同生活が始まって三日目。
まだ“馴染む”というには早く、かといって完全な他人でもいられない。そんな宙ぶらりんな距離感が、共有スペースの空気を少しずつ重たくしていた。
「えーっと……当番表、これで合ってる? 掃除、今日って俺と……未奈?」
廊下に貼り出されたホワイトボードを指さしながら、翔大が眉をひそめる。
その隣では、伊織未奈が片手にスマホを持ったまま、まったくこちらを見ようとしない。
「え? あたし今日買い物行くって言ったよね」
「……え、初耳」
「昨日の夜に言ったけど?」
「うーん、それは……聞いた気もするけど……でも言ってくれたら、調整できたのに」
「ていうか、掃除当番ってそんなに厳密な感じだったんだ……」
ふっと、未奈がため息をつくように言い放つ。
翔大は困ったように苦笑し、その場をやり過ごそうとした。
だが、そこで口を開いたのは別の人物だった。
「厳密である必要がある」
その場にいた数人が、反射的に振り向く。
共有スペースの一角に立っていたのは、谷川凌だった。
資料片手に、冷静な表情のまま、言葉を継ぐ。
「生活ルールは“目安”じゃなく“約束”だ。例外を認め始めたら、それは全体の規律を崩すきっかけになる」
空気が、すっと引き締まる。
それは、強権的というよりは、冷静な“論”としての発言だった。だが、それゆえに言い返しにくい。
「でも、個別の事情は考慮してくれるんだよね?」
そう言ったのは、愛梨だった。
背もたれに浅く腰掛けたまま、足を組み、真っすぐに凌を見つめる。
「事情が説明され、かつそれが妥当であると判断されれば」
「じゃあ、判断するのは誰?」
「俺だ」
即答。
愛梨は、すっと視線を逸らし、小さく笑った。
「なるほど。“裁定者”ってわけだ」
その言い方には皮肉も含まれていた。だが凌は、特に動じた様子もなく、そのまま部屋を出ていった。
その背中を見送りながら、愛梨は心の中で呟いた。
──あの人、自分が嫌われるって考えたことあるのかな。
午後。
居室に戻った愛梨は、ノートを開きながらぼんやりと天井を眺めていた。
共同生活なんて、たぶん自分には向いていない──そう思っていた。
もともと「輪の中にいる」ことに、疲れを感じるタイプだ。
大学にいた頃も、グループで何かするのは苦手だったし、特定の誰かと深く関わることも避けていた。
だけど、だからといって完全に孤独になりたいわけでもなかった。
(あの人は、逆なのかもしれない)
谷川凌という男は、誰とも“情緒的”に関わろうとしない。
ただ効率的に動き、正しさを積み上げることで、秩序を保とうとする。
でも、それって……人とちゃんと関わるより、ずっと簡単なやり方だ。
その夜。
ダイニングテーブルには、カレーとサラダが並んでいた。伊佐と礼奈のペアが、手際よく作ったものだ。
「カレー、すっごいスパイス効いてる……けど、おいしい」
「辛いの苦手な人いたら、言ってくださいね。俺、たぶん鈍いんで……」
伊佐が少し照れくさそうに笑いながら言う。
そんな彼を見て、礼奈がほんの少しだけ口角を上げた。
それは“親密さ”とはちょっと違う。
けれど、誰かの気配に自然と寄り添うような、静かなつながり。
そんな空気を、愛梨は遠目から感じ取っていた。
(あれでいいのかも。言葉が多すぎると、かえって誤解が増えるし)
食事を終えたあと、愛梨はダイニングを出ようとして、ふと立ち止まった。
廊下の奥に、凌の姿があった。
ホワイトボードの前で、一人、マーカーを片手に整理をしている。
彼は誰かに頼まれたわけでもないのに、誰よりも先に自分の責任を果たそうとしていた。
その姿に、愛梨は思わず声をかけた。
「ねえ、そんなに全部一人でやってたら、疲れない?」
凌は手を止めて振り返った。
その表情は、少し驚いたようにも見えた。
「……これは俺の役割だから」
「じゃあ、“役割”ってなんだと思う?」
「……状況を維持するための、必要な行動を取ることだ」
「ふうん。じゃあさ、誰かが勝手に泣いたら、それも“状況”?」
その問いに、凌はしばし言葉を失った。
そして、少しだけ視線を落とし、呟いた。
「……その時は、対応を考える」
「対応ね。じゃあ、そういうときは“感情”も見てくれる?」
愛梨は、試すような笑みを浮かべたまま、踵を返した。
返事は聞かない。
ただ、彼女の中にあった“排他的な印象”は、ほんのわずかに軟化していた。