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恋に踏み出す、その前に。──たった一歩が、こんなにも遠くて、愛しくて。  作者: 輝


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第19章 優しい嘘を、信じてもいい?

  星見坂レジデンスの小さな中庭に、春の夕日が斜めに差し込む。

  その光のなかで、鳥澤礼奈はいつものように植木の手入れをしていた。

  控えめなエプロン姿。丁寧に土を払う指先。

  作業は一つ一つ慎重で、まるで“静けさ”そのものを編み込むような佇まい。

  その傍に、伊佐俊樹がそっと現れた。

「礼奈さん、これ……差し入れです。柚子ピール入りのクッキー」

「あ、ありがとうございます。……お茶、ありますよ。淹れますね」

「いや、僕が」

「いいえ、ここは譲れません」

  二人は、声を荒げるわけでもなく、自然と役割を押し付け合う。

  まるで、長年連れ添った老夫婦のように。

 

  木製ベンチに並んで座り、手にした温かいカップから立ち上る湯気を眺めながら、礼奈はふと静かに口を開いた。

「伊佐さん、最近……ちょっと疲れてませんか?」

  俊樹は目を細めた。少しだけ、躊躇いのような間。

「……バレましたか」

「なんとなく、目の動きが。いつもより少し、止まることが多かったから」

「……すごい観察力ですね」

「心配になるんです。あなたは、疲れてても“誰かのために”を優先しちゃうから」

  その一言に、俊樹は胸の奥を射抜かれたような感覚を覚えた。

「実は……兄が、少し調子を崩していて。実家に帰って対応してたんです。仕事は休めないから、こっちと行き来しながら」

「……大変、ですね」

「でも、それを言ったら“気を遣わせる”と思って……だから、言ってなかった」

  俊樹は、申し訳なさそうに苦笑した。

  礼奈は、クッキーを一口かじりながら、目を閉じるように言った。

「“優しい嘘”って、たしかにあると思います。……でも、優しさの中にある“不安”も、たまには誰かに預けてもいいんですよ」

「……預けて、いいんですかね」

「少なくとも、私は受け止められる準備はできてるつもりです」

  その言葉に、俊樹の表情が少し崩れた。

  長く張りつめていた何かが、音を立てずにほどけていくようだった。

 

  それから数日後の夕暮れ。

  俊樹は礼奈を誘って、近くの商店街まで買い出しに出かけた。

  途中、和菓子店の前で彼は立ち止まり、小さな包みを手渡す。

「これ、あの時のお礼。柚子羊羹、礼奈さんが前に好きって言ってたから」

「え、覚えてたんですか?」

「……はい。たぶん、礼奈さんの言葉は、一つ一つ心に残るんです。静かだけど、強いから」

  礼奈は、ふっと目を伏せて小さく笑った。

「伊佐さんは、優しい嘘をつく人だと思ってました」

「……今でも?」

「いいえ。今は、“正直になろうとしてる人”に見えます」

 

  帰り道、二人は並んで歩いた。

  特に会話はなかったけれど、そこには“沈黙を分け合う”穏やかな時間が流れていた。

 

  その夜、礼奈は日記帳のページに、丁寧な字でこう綴った。

 《嘘でも本当でも、あなたが“自分のことを話そうとしてくれた”ことが、何よりもうれしかった。

  優しさを差し出すのも勇気だけど、それを“信じる勇気”も、ちゃんと育てていきたい》


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