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恋に踏み出す、その前に。──たった一歩が、こんなにも遠くて、愛しくて。  作者: 輝


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第18章 わかりやすくなくても

土曜日の午後、星見坂レジデンスの作業室では、上地拓夢が大きなカッティングボードの上でイベント看板の仕上げをしていた。

彼の動きは迷いがなく、スプレーの噴霧もカットの直線もまるで機械のように正確だった。

その様子を、数歩離れたところからじっと見ている人がいる。

菅谷さくらだ。

「……すごいなあ。ほんとに、感情どこにあるのってくらい淡々としてる」

「さくらさん、声に出てます」

「え、うそ、今の独り言だったつもり……」

さくらは思わず頬を赤らめて笑う。

拓夢は作業の手を止めずに、淡々と返す。

「感情がないわけじゃありません。ただ、必要なとき以外は出さないだけです」

「必要なときって、どんなとき?」

その質問には、彼もすこしだけ困ったように手を止めた。

「……難しいですね。“誰かが困っているとき”ですかね」

「じゃあ、今の私は“困ってる”って思ってもらえる?」

「……何に困っていますか?」

真面目に返されて、さくらは笑いながら項垂れた。

「たぶん、“自分の気持ち”の整理に困ってるんだと思う。自分が何をしたいのか、とか、何を目指してるのかとか、ほんと分かんなくなる時があるの」

「それは、誰にでもあることです」

「うん、そうなんだけどさ。でも、拓夢くんは、そういう時どうするの?」

「“迷っている”という事実を、タスクとして処理します。つまり、“何に迷っているか”を項目化し、一つずつ検証します」

「……それを、無意識にできるのがすごいと思うよ」


その後、さくらは作業室の隅にある椅子に腰かけ、ノートを開いた。

そこにはびっしりと自分の反省や予定や思いつきが並んでいる。

(私って、ずっと“わかりやすくしなきゃ”って思ってた)

失敗しないように、嫌われないように、きちんと整えた言葉と行動。

だけど、それが時々、自分を苦しめていた。

そこへ、拓夢が静かに歩み寄ってきた。

「これ、差し入れです」

彼が差し出したのは、ミニサイズのラムネ菓子だった。

「え……なんで?」

「迷っているときは、糖分と休憩が必要です。少なくとも、僕はそうしています」

その言い方に、さくらはふっと笑う。

「そっか。“感情”って、あなたなりに扱ってるんだね」

「はい。“わかりやすくはない”かもしれませんが、“確かにある”とは思っています」

その言葉が、じんと心に響いた。


夜。

中庭のベンチで、さくらは拓夢と並んで腰かけていた。

夜空はくっきりと晴れ、星がちらちらとまたたいていた。

「ねえ、拓夢くん」

「はい」

「私さ、“誰かにちゃんとわかってほしい”って、ずっと思ってたの。

でも、わかってもらうには、自分がわかりやすくなきゃいけないって、どこかで思い込んでて」

「……それは、“正しすぎる苦しさ”ですね」

「うん。今日、あなたと話して思ったの。“わかりにくいままでも、いていいんだ”って」

しばらく沈黙が続いたあと、拓夢はまっすぐ前を見ながら言った。

「僕も、“説明できない感情”を持てたのは、たぶん……さくらさんが初めてです」

「……え?」

「理由も形式も超えて、ただ“そばにいたい”って、思ってる。それが何なのか、まだうまく言語化できていません。でも、間違ってないと思ってます」

その告白に、さくらは言葉を失った。

けれど、それは、彼女がずっと欲しかった“不器用な本音”だった。

「……ありがと」


その夜、さくらはノートの最後のページにこう記した。

《わかりやすくなくても、ちゃんと届く言葉はある。

誰かと向き合うって、そういうことなのかもしれない》

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