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恋に踏み出す、その前に。──たった一歩が、こんなにも遠くて、愛しくて。  作者: 輝


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第17章 それは“恋”じゃなくても

土曜の午後、星見坂レジデンスのリビングに心地よい日差しが差し込んでいた。

ソファには、伊織未奈が寝転がり、スマホを握ったまま無言で天井を見ている。

(なんか、最近、翔大くんの顔、まともに見れないんだよね……)

LINEのトーク画面を開いては閉じ、また開く。そこにあるのは、ここ数日まともに更新されていない会話履歴。

イベントのこと、当番のこと、ちょっとした雑談。それなのに、どうにも素直になれない。

(あたしって、こんなに“気にしい”だったっけ……)

隣のソファに座っていた礼奈が、小さな声で尋ねた。

「未奈さん、具合悪い?」

「ん……いや。悪いっていうか、悪くはないっていうか……」

「悩んでるなら、聞きますよ?」

「……誰かのために“聞いてくれる”っていうの、礼奈ちゃんはほんと、ズルいくらい優しいよね」

照れ笑いを浮かべながらも、未奈は視線を床に落とした。

「わかってるんだよ、翔大くんが“私”を見てないって。

……それでも、そばにいたいって思うのは、ズルいよね?」

礼奈は、未奈のその呟きに何も言わなかった。

ただ、そっと紅茶のカップを渡した。温かい湯気が、二人の間の沈黙をやさしく包んだ。


一方、沢田翔大は共用作業室でイベントの資料を確認していた。

今日も集中して仕事を進めていたが、ふとスマホに目をやると、未読のままの未奈からのメッセージが浮かんでいた。

「……未奈、最近ちょっと、変だよな」

隣にいた拓夢が、何気なく聞いた。

「なにが?」

「いや、なんとなく。空気変わったっていうか、距離を取ってるような……」

「鈍いですね、翔大さん」

「え?」

「未奈さんは“見られていない”って気づいてしまったんですよ。……あなたが“愛梨さんを見ている”ことに」

その一言が、翔大の胸をざくりとえぐった。

(……そう、なのか)

未奈の存在が“そばにいるのが当たり前”になっていた。

けれど、心はどこか別のほうを見ていた――それが、自分の無意識の残酷さだったと、ようやく理解した。


夕方、屋上に出ると、ちょうど未奈が一人でベンチに座っていた。

翔大は、静かにその隣に腰を下ろす。

「……ごめん」

「……うん、わかってる。あたし、もうわかってるから。

翔大くんの視線が、私の方じゃないってことも、全部」

「それでも、そばにいてくれて、ありがとう」

その言葉に、未奈の喉が詰まりかけた。

「……私さ、“好き”って気持ち、伝えるのがこわかった。

だって、伝えたら壊れるってわかってたから」

「壊して、ごめん」

「違うの。翔大くんは、何も悪くない。

私はただ……“選ばれたかった”だけ。

“恋”じゃなくても、“誰かに必要とされる”って感覚を、あなたの隣で感じたかっただけなんだよ」

翔大は、言葉が出なかった。

未奈の言葉は、あまりにも切実で、あまりにも静かだった。


二人の間には、しばらく風の音しかなかった。

やがて、未奈が小さく笑う。

「でもね、いま思うの。“恋じゃないとしても、こんなに大事に思えたなら、それで十分だった”って」

「未奈……」

「だから、泣かないって決めた。泣いたら、今の関係まで壊れる気がするから」

翔大は、彼女の横顔を見つめながら、自分のなかの未熟さをかみしめていた。


その夜。

未奈は、自分のノートにひとことだけ書いた。

《“恋じゃないかもしれないけど、それでも私の一部になった気持ち”――きっと、これが大人になるってことなのかもしれない》


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