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恋に踏み出す、その前に。──たった一歩が、こんなにも遠くて、愛しくて。  作者: 輝


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第16章 ごめんねの先にあるもの

午後の光が傾きはじめた星見坂レジデンスの中庭には、ゆっくりとした風が吹いていた。

その風のなかで、水谷愛梨は一人、ベンチに腰かけていた。

左手には、軽く折りたたまれたメモ用紙。

内容は、翌週の地域フードフェスのシフト割。だが、視線はそこに落ちていない。

見ているのは、遠くの景色――あるいは、その中に混じってしまった彼女自身の気持ちだった。

(わたし……あの時、言いすぎたのかな)

昨日、谷川凌に向けて放った言葉が、胸の奥で静かにこだましていた。

「あなたの正しさは、誰かにとって壁にもなる」――

あれは、本当に伝えるべきだったのか。傷つけるつもりはなかった。だけど、彼の表情に確かに浮かんだあの揺らぎが、今でも離れない。

謝りたい。

でも、言葉が見つからない。


一方その頃。

別室で進行表の修正に取り組んでいた凌もまた、手元の資料に集中できていなかった。

(正しさを貫いてきた俺が、“間違っていた”かもしれない)

それは、思考の根幹を揺るがすには十分すぎる重さだった。

だが、同時に――その“間違い”に気づけたことこそが、もしかすると初めて人と本当につながれる予感なのかもしれない、という直感もあった。

(謝るべきなのは、俺の方かもしれない)

その瞬間、部屋のドアが静かにノックされた。

開けると、そこに立っていたのは愛梨だった。

「……ちょっと、いい?」

「……ああ」


二人は、誰もいない屋上に出た。

春の陽射しが、薄く広がる雲のすき間から差し込み、柔らかく影を作っていた。

「昨日のことだけど……ごめん。

言い方、きつかったよね。わたし、伝えたくて言ったけど……ちゃんと伝わったか、自信なくて」

愛梨は、フェンスに寄りかかりながら、空を見上げた。

凌は、一歩だけ彼女に近づいて、静かに言葉を重ねた。

「いや……君は、間違っていなかった。俺がずっと“こうすべきだ”って考えてたことが、結果的に誰かを縛ってた。それに気づけたのは、君のおかげだ」

愛梨は、そっと視線を戻す。

「……ありがとう。でも、わたし、ちょっと怖かった」

「なにが?」

「あなたが、わたしの言葉で離れていくんじゃないかって」

その言葉は、想像以上に柔らかくて脆かった。

凌は、初めて“感情”というものの繊細さを、真正面から受け止めた気がした。

「……俺は、逃げない」

「……うん」

「ただ、ひとつだけ聞かせて」

「なに?」

「昨日、君が“ごめん”を言う必要があったとしたら、それは、どこに対してだった?」

愛梨は、少し考えてから、ぽつりと答えた。

「“自分の正しさ”を押し通そうとした、あなたと同じことを、わたしもしてたかもしれないって」

「……」

「“感情を大事にして”って、わたしは言ったけど、それって“感情こそが正しい”っていう、別の押しつけだったのかもしれないなって」

凌は目を細めた。

「……なら、俺たちは、同じところで向き合えたんだと思う」

その言葉に、愛梨の表情がすっと緩む。

ふたりの間に流れた沈黙は、もう以前のように重くはなかった。

“正しさ”も“感情”も、どちらかが勝つためのものではない。

大切なのは、互いに歩み寄ること。それを、ようやく理解し始めたのだ。


その夜。

リビングのソファで、翔大と未奈がボードゲームを広げて騒いでいた。

その脇では、拓夢とさくらが並んで作業帳を眺めていて、礼奈と俊樹は静かにココアを飲んでいた。

そして、その輪の一番外側で、凌と愛梨が並んで座っていた。

言葉はない。でも、沈黙が心地よかった。

愛梨がつぶやいた。

「“ごめんね”って、ちゃんと言えたから、また前を向ける気がする」

凌は、そっと頷いた。

「“ごめん”の先に、“もう一度”があるなら……俺はそれを、何度でも言える」

その夜、二人の距離は確かに変わっていた。

まだ“好き”とは言えない。けれど、“大切”と呼べるほどには、互いの心が響き合っていた。


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