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恋に踏み出す、その前に。──たった一歩が、こんなにも遠くて、愛しくて。  作者: 輝


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第15章 誰かの「正義」は誰かの「壁」

  春の日差しが差し込むラウンジで、会議室のドアが小さく軋んだ音を立てた。

  壁には、今月末の地域協働イベントの最新版スケジュール表が貼り出されている。

  その前で立ち止まった谷川凌は、無言で配置図の赤字修正に目を通していた。

  細かく調整された時間割。厳密な導線管理。各セクションごとのチェックポイント。

  完璧だった。──少なくとも、理論上は。

  だが、そこへやってきた水谷愛梨の一言が、その均衡を崩すことになる。

「ねぇ、このタイムテーブル、ちょっと“余白”がなさすぎない?」

  凌は首を傾げる。

「余白?」

「うん。たとえば、子どもたちがワークショップに思ったより長く滞在したときとか、急な変更があったときの“柔軟性”って、この中にどこまで含まれてる?」

「……予測可能な範囲でリスクヘッジはしてある。各セクションに予備時間も組み込んだ」

「でも、“人が動くときの気持ち”までは組み込まれてないよね」

  言葉は優しかったが、その目はまっすぐだった。

  凌はそのまま少しだけ黙り込んだ。

「谷川くんってさ、完璧に整った世界を用意しようとするでしょ。でもね、現実って、思ったより感情で動くんだよ」

「……それは否定しない。だが、“計画通りに動かない”ことを肯定するわけにもいかない」

「それって、“守るべき正義”があるってこと?」

「……ああ」

  凌の答えは、はっきりしていた。

  その瞬間、愛梨の表情に、かすかな違和感が浮かぶ。

「でも、その“正義”が、誰かにとって“壁”になることもあるんだよ?」

「……」

「たとえば、翔大くんや未奈みたいな、予定通りに動けないタイプ。そういう人にとっては、“あなたの正しさ”が、自分を否定されてるって感じさせることもある」

  その言葉に、凌は明らかに動揺を見せた。

「俺は……人を否定するつもりはない。むしろ、混乱を防ぎたいだけだ」

「うん。でもね、想定外の人の動きが“混乱”だっていうのは、あなたの側から見た話なんだよ」

  会話は対立しているようで、どこか切実だった。

  “正義”の名を借りた秩序が、誰かの自由を奪っているかもしれない。

 

  その後の夕食時、ダイニングにいた凌の手が、ふと止まった。

  愛梨の言葉が、胸の奥で反芻されていた。

(俺の正しさは、誰かを守ってきた。だが同時に、誰かを傷つけていたかもしれない)

  この共同生活で、彼は“管理者”として動いてきた。

  だが、それは“理解者”になることとは、決して同義ではなかった。

 

  同じ夜、愛梨は共有スペースで拓夢とさくらの話し声を聞いていた。

「拓夢くんは、“正しさ”をどう考えてるの?」

「僕は、“正しさ”よりも“続けられるかどうか”の方を信じてる。ルールって、一回で崩れるけど、習慣はちょっとくらい曲がっても戻れるから」

「それって、なんか……やさしいね」

  その会話が、愛梨の胸にすとんと落ちた。

  “正しさ”の押しつけではなく、“ゆるやかな前進”こそが、人を変えていくのかもしれない。

 

  その夜、凌はノートを開いて書き残した。

 《俺の“正しさ”は、誰かにとっての“しがらみ”だったのかもしれない》

  そして、翌朝。

  彼はミーティングの場でこう口にした。

「今回のイベント進行、部分的に見直したい。……“人が想定通りに動かない”ことを前提に、再設計する」

  一同が少し驚いたように顔を見合わせたあと、愛梨がほほ笑んだ。

「……その柔軟さ、すごくいいと思うよ」

  凌は、静かに頷いた。

  自分の“正義”を疑うこと。それは、誰かと共に進むための最初の一歩だった。

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