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恋に踏み出す、その前に。──たった一歩が、こんなにも遠くて、愛しくて。  作者: 輝


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第14章 それが恋じゃなかったとしても

  雨の前触れのような曇り空だった。

  星見坂レジデンスの裏庭では、しとしとと湿気を含んだ風が吹いていた。

  鳥澤礼奈は、小さな鉢植えを手に、縁側に腰を下ろしていた。

  手元のラベンダーの苗を植え替えながら、その静かな動作に、まるで自分の気持ちを整えるような集中があった。

  そこへ、伊佐俊樹がひょっこりと現れた。手には白い布巾と濡れた調理器具。

「ここで洗ってもいい?」

「どうぞ。……蛇口、固いから気をつけてくださいね」

「ありがと」

  蛇口の音と金属のカチャカチャという音が、静かな庭に少しだけ響く。

  礼奈は、ラベンダーの苗に添える支柱を立てながら、ぽつりと呟いた。

「伊佐さんって、なんで“支える”側ばかりなんですか?」

  俊樹は手を止め、少しだけ間を空けた。

「……向いてるから、ですかね」

「それって、“そうするしかなかった”ってことじゃないですか?」

「……かもしれません」

  蛇口を止め、彼は礼奈の隣に腰を下ろす。

  二人の間にある距離は、肩が触れそうで触れない、絶妙な間合いだった。

「俺、小さい頃から“自分が我慢すれば丸く収まる”って思って育ってきたんです。

  家でも学校でも、衝突するより、誰かの意見に乗っかった方が平和だった」

「でも、それって“自分”はどこに行くんですか?」

  礼奈の問いは、優しいのに鋭かった。

  俊樹は答えに詰まり、俯く。

「……本当は、支えるだけじゃなくて、“選ばれる”ことも、したかったのかもしれません」

  静かな沈黙のあと、礼奈はゆっくりと口を開いた。

「私は、言葉にするのが苦手です。うまく感情を伝えられなくて、黙ってることのほうが多くて。

  でも、そんな自分を、伊佐さんは責めないでいてくれる。……それが、すごく安心します」

「……ありがとう」

「だから、もしかしたら、これは“恋”じゃないのかもしれないけど……私は、伊佐さんの隣にいると、心が落ち着くんです」

  その言葉は、告白ではなかった。

  でも、それ以上に真実だった。

  俊樹は、ゆっくりと礼奈のほうを向いた。

  彼女は小さくうなずき、ラベンダーの鉢にそっと手を添えた。

「これ、花が咲くの、初夏なんですよ。

  ……咲いたら、一緒に見ませんか?」

「……はい。楽しみにしてます」

  二人の間には、恋という名前のない、けれど確かな“感情”が芽生え始めていた。

 

  その夜。

  食堂のテーブルでは、愛梨が静かにスープをすすっていた。

  向かいに座る凌が、少し考え込んだような表情をしていた。

「何か、あった?」

「……いや、ただ今日、俊樹と礼奈が並んで庭にいたのを見て、少し考えた」

「うん」

「君が前に言っていた“名前のない感情”って、ああいうことを言うのかもしれないと思って」

「そうだね。恋って、何かを定義したくなるけど……

  “定義できない関係”のほうが、案外深かったりするかもしれない」

  凌はスプーンを置き、しばらく彼女の横顔を見ていた。

(俺は今、君の隣にいる。この時間を“恋”と呼べるのか、まだわからない)

(でも、たしかにここに“誰かを大切に思う感情”はある)

  その気持ちを、まだ名前にすることはできなかった。

  けれど、それでも、隣にいる価値があると信じられた。


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