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恋に踏み出す、その前に。──たった一歩が、こんなにも遠くて、愛しくて。  作者: 輝


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第13章 手を伸ばす前に考える癖

  春の夜風が、カーテンを軽く揺らす。

  星見坂レジデンスの居室棟の片隅、谷川凌は自室のデスクに向かいながら、ウィンドウの奥に並んだ報告書のファイルを黙々と整理していた。

  けれど、ページを送る手の動きが、ふと止まる。

(また……無意識に、彼女の名前を探してる)

  水谷愛梨――彼女の名前が、今日の活動報告のなかに出てきた瞬間、ほんのわずかに手が止まる自分に、気づいてしまった。

  理論で世界を捉え、感情は“ノイズ”と処理してきた自分が、彼女にだけ、わずかな揺れを見せている。

  その事実を、いまだにうまく受け止めきれないままでいた。

 

  同じ頃。

  共有スペースのソファでは、愛梨がひとり、膝を抱えて座っていた。

  ノートパソコンには、来週の地域向けイベントのプレゼン案が表示されている。

  しかし、視線はディスプレイを貫通して、どこか遠くを見ていた。

(凌くん……この頃、なんだか目を合わせてくれない気がする)

  前よりは、距離が近づいたはずなのに。

  ふとした時、視線を逸らされる。言葉が届いても、何かを受け取ってもらえていないような気がしてしまう。

(やっぱり、私は“特別”じゃないのかな)

  感情に敏い彼女にとって、その“わずかなズレ”は、決して見逃せるものではなかった。

 

  翌日。

  午前中の作業中、谷川凌と水谷愛梨は偶然にも、古民家修復チームの作業で二人きりになった。

  天井の梁の補強作業。

  脚立の下で支えるのが愛梨。上で固定器具を使うのが凌。

「……もう少し右。うん、その位置で固定する」

「了解」

  業務連絡だけでやり取りは続いた。

  空気は静かすぎて、逆にぎこちない。

「……最近、避けてない?」

  先に口を開いたのは、やはり愛梨だった。

「君のことか?」

「他に誰がいるの」

  凌は工具を一旦置き、脚立からゆっくり降りた。

「……避けてるわけじゃない。ただ、考えていた」

「何を?」

「俺が、君に何かを“期待されている”気がして……それにどう応えるべきかを」

  愛梨はしばらく黙ってから、ぽつりと呟いた。

「考えなくていいよ。私は、“答え”なんて求めてない」

「でも、俺は……“正解”を渡せなきゃ、不安になるんだ」

「そういうところだよ」

  愛梨は、柔らかく微笑んで言った。

「あなたは、手を伸ばす前に考える癖がある。正しいかどうかを、まず確かめようとする。……でも、それって、誰かにとっては“距離”に見えることもあるんだよ」

  凌はその言葉に、はっとした表情を浮かべた。

  それは、彼自身がもっとも無意識にしていた“癖”だった。

 

  夕暮れ。

  二人は作業を終え、静かな河原道を並んで歩いていた。

  西日が川面に反射して、淡く橙色の影を作っていた。

「……俺、昔から“予測”することで自分を守ってきた。家庭が複雑で、両親の間の空気を読むのが当たり前だったから」

「……うん」

「自分の気持ちより先に、“こうあるべき”って行動を選ぶ癖が、もう染みついてる。でも、それじゃ“誰かをちゃんと見る”ってことができないんだって、最近気づいた」

  その声は、いつになく弱々しかった。

  愛梨は歩みを止めて、彼のほうを見た。

「わたしは、あなたがそうやって“迷ってる”姿も、ちゃんと好きになれると思うよ」

  その言葉に、凌は小さく息をのんだ。

「……それって、ずるいな」

「そう? わたし、あなたの考える“正解”に応えるより、あなた自身の“本音”のほうがずっと知りたいよ」

 

  その夜、愛梨はまたひとつ日記を綴った。

 《考えすぎる彼のことを、私はまだ好きとは言えないけど……

  手を伸ばす前に考える癖がある彼を、待つことはできると思った。》


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