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恋に踏み出す、その前に。──たった一歩が、こんなにも遠くて、愛しくて。  作者: 輝


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第12章 好きって言うのは、簡単なことじゃない

  月曜の朝。

  星見坂レジデンスのダイニングでは、朝食をとる住人たちのざわめきの中に、少しだけざわついた空気が混ざっていた。

「ねぇねぇ、あれ、完全に“ケンカップル”じゃない?」

  未奈がパンをくわえながら、小声でほのかに耳打ちする。

  その視線の先にいるのは、友坂拓矢と戸野ほのかの二人だった。

「いや、まだ“カップル”になってないでしょ」

「でも、あの距離感、ほとんど紙一重って感じしない?」

  二人は食卓を挟んで座っていたが、互いに目を合わせないままパンをかじり、まるで昨日なにかがあったかのようなよそよそしさだった。

「……それで、私のこと、どう思ってるの?」

「だから、それは……!」

  ──昨晩。

  共用キッチンの片隅で、ふとした拍子に始まった“問いかけ”のやり取りが、二人の関係に火をつけていた。

  ほのかが唐突に問い、拓矢が逃げ、曖昧な言葉を重ね――

  最後には、何も言えずにその場を去ってしまったのだった。

(信じたい。でも、もうちょっと……はっきりしてほしい)

  ほのかの胸の中にあるもどかしさは、恋という名のもやに変わり、彼女の表情を曇らせていた。

 

  一方で、愛梨はそのやり取りを見ながら、ふと自分に重ねていた。

  “好き”と伝えることは、実はとても怖いことだ――それを、ほのかが代弁しているような気がした。

  キッチンでマグカップを片付けていた谷川凌の背中を見つめながら、心の中でそっと問いを投げる。

(もし、私が“あなたのことが好きかもしれない”って言ったら、どうなるんだろう)

  だが、口には出せなかった。

 

  その日の昼。

  星見坂の裏山で行われる“季節の収穫体験”の現場では、拓夢とさくらが中心となって、住人と地域の子どもたちの受け入れ準備をしていた。

  うねを整え、苗を並べるその作業の中、さくらがふと声をかけた。

「ねぇ、拓夢くんって……誰かに“好き”って言ったことある?」

「……いきなりですね」

「だって気になる。あなたって、なんでも効率よくやるけど、“感情”のことになるとちょっと不器用そうだから」

「好き、か……」

  拓夢はしばし手を止め、空を見た。

「僕は、誰かを“選ぶ”ときに、選ばれる理由をちゃんと作りたいと思ってしまう」

「それ、すごくわかる気がする。でも、“理由”じゃなくて、“気持ち”だけでもいい時、あるよ?」

「それが……怖いんです」

  その答えに、さくらはしんとした表情を浮かべた。

  それは、どこか自分自身にも向けた気づきだった。

 

  夜。

  ほのかは、テラスでひとり風に当たっていた。

  その背後から、足音が近づく。

「……戸野さん」

「……拓矢くん」

  二人の間に、昨晩から残っていた静かな緊張が流れる。

  拓矢は、ぎこちなく手すりに手を置き、視線を泳がせた。

「昨日のこと……ごめん。答えを出すのが、怖かったんだ」

「怖い?」

「“信用されにくい”って、自分でもわかってるから。……自分が好意を持っても、受け取ってもらえなかったらどうしようって」

  その言葉に、ほのかの目がゆっくりと揺れた。

「ねえ、それって……わたしのこと、好きってことで合ってる?」

  拓矢は返事ができなかった。

  けれど、数秒の沈黙のあと、彼は小さく頷いた。

「……たぶん、うん。好きだと思う。好きって、簡単に言えるものじゃないってわかってるけど……でも、たぶん」

「たぶん、じゃなくていいよ。今の、そのままで、いい」

  ほのかの声はやさしく、揺るぎなかった。

  そうして、ふたりの距離がすこしだけ縮まった夜だった。

 

  そのあと。

  愛梨は、リビングの端でその光景を静かに見守っていた。

「……好きって言うの、簡単じゃないけど、言葉にしたから届くこともあるんだよね」

  ぽつりと呟いたその声に、隣で座っていた凌が応じた。

「それでも、言葉にすることには価値がある。……きっと、言葉にできない感情のほうがずっと多いからこそ」

  愛梨は彼の言葉にうなずきながら、心の中にひとつの芽が宿るのを感じていた。

  それは、言葉にできる日を、じっと待っている“好き”という名前の感情だった。

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