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恋に踏み出す、その前に。──たった一歩が、こんなにも遠くて、愛しくて。  作者: 輝


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第11章 感情を、忘れないで

  春の午後。

  星見坂レジデンスから少し離れた公園の一角に、即席の子ども向けイベントスペースが設けられていた。

  フェルト細工のワークショップ、紙芝居、スーパーボールすくい。

  小さなテントと手作りの飾り付けに囲まれて、数人の住人たちが子どもたちと関わっていた。

「はい、そこ“のり”はここだけにしてね。広げすぎると手についちゃうよ〜」

  その声は、思いのほか明るく響いた。

  フェルトで作る動物マスコットのコーナーで、笑顔を浮かべながら子どもに対応していたのは――水谷愛梨だった。

「お姉ちゃん、これあげるー!」

  小さな女の子が、紫色の布で作った不思議な形のマスコットを愛梨に差し出す。

  彼女は一瞬目を見開いてから、ふっと微笑んでそれを受け取った。

「ありがとう。……これ、なんの形?」

「わかんないけど、かわいくなったの!」

「うん、すっごくかわいい。わたしの宝物にするね」

  愛梨の声は、優しくてあたたかくて、子どもたちの輪の中で自然に溶け込んでいた。

 

  そんな彼女の様子を、少し離れた位置から谷川凌は見ていた。

  彼はテントの後方で運営資料をまとめながらも、視線はつい愛梨のほうに吸い寄せられていた。

(……あんな笑い方、するんだ)

  それは、今まで見たことのない表情だった。

  言葉じゃなく、感情が先に溢れ出している。

  誰に向けたでもない笑顔。誰かの役に立つ喜びに満ちた顔。

  理屈では整理できない“好意”が、胸の奥にじわりと広がる。

(……やばい)

  自分の中に起きているこの感情を、凌は“予測できなかった”。

  それが、何よりも動揺する理由だった。

 

  イベント終了後、住人たちは手分けして片付けに取り掛かっていた。

  テントの骨組みを畳み、備品をケースに詰めていく。

  そんな中、愛梨はひとり、道端でまだ残っていた飾りつけのガーランドを丁寧にほどいていた。

  そこへ、凌が静かに近づく。

「……さっきの君、すごく自然だった」

「え?」

「子どもたちと接していたとき。……驚いた。あんなに笑うんだって」

「……そう?」

  愛梨は、風に揺れるリボンを手にしながら小さく微笑む。

「子どもってさ、感情に嘘つかないから。ちゃんと向き合わないと、すぐバレる」

「それは、怖くないのか?」

「怖いよ。でも……向き合う価値はあると思う。感情って、忘れたくないから」

  凌はその言葉に、返す言葉が見つからなかった。

  彼にとって、感情とは“管理すべきもの”であり、時には“誤差”でもあった。

  けれど今、目の前の彼女は、それを“守るべきもの”だと言っている。

(それが、彼女の強さか)

  何かが揺らぎ始めるのを感じていた。

  予測も分析もできない、得体の知れないものが、自分の中で静かに芽吹いていた。

 

  その夜。

  共有キッチンでは、未奈とさくらがケーキの残りを分けながら、愛梨にあれこれ話しかけていた。

「愛梨ちゃん、今日マジでアイドルかと思ったよ」

「ほんとに。あの笑顔、反則だわ〜。あたしが男なら一発で惚れてた」

「ちょ、やめてよ、そういうの」

  顔を赤らめながら、愛梨はお皿を引っ込めた。

  けれどその目は、どこかうれしそうだった。

 

  廊下に出たあと、愛梨はふと足を止めた。

  そこに、凌が立っていた。

「……お疲れさま」

「君こそ。子どもたち、楽しそうだったな」

「うん。でも、私のほうが楽しんでたかも」

  照れくさそうにそう言った愛梨に、凌は一拍置いて言った。

「今日の君を見て、俺は……少し、動揺した」

「え?」

「“予測できないこと”って、俺は苦手なんだ。でも、君はそこに価値を見いだしている。……それが、すごいと思った」

「……ありがと」

  愛梨は、そのまま彼に向かって小さく笑った。

  それは、午前中に見せたあの笑顔とは違う。

  “この人にだけ向けた”笑みだった。

  凌の胸が、ほんの少し、熱くなった。

 

  その夜、彼は自室でノートにこう記した。

 《感情は誤差ではなく、予測できないからこそ、美しいのかもしれない》

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