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【第1章】はじまりの朝は、静かだった

  朝露に濡れた石畳が、まるで一晩で磨きあげられたように艶めいている。

  春の匂いが混じるその空気のなかで、谷川凌は「星見坂レジデンス」の門の前に立っていた。

  この施設は、若年層の地方移住促進と地域活性化を目的とした民間主導の共同生活拠点だ。

  ここに一定期間滞在し、地域の仕事やイベントに参加しながら、住人同士で生活を営む。

  ──名目上は「自立支援型の研修生活」。だが、凌はこの制度の裏側を知っていた。

(要するに、環境に適応できるか試されてるってことだ)

  責任者代理として選ばれた彼は、今日からこの共同生活を「主導」する立場にある。

  準備は整っている。資料も頭に入れた。誰よりも正確にルールを把握している自信があった。

  だが、門をくぐった瞬間、思わず足を止めた。

  建物の全景が朝陽に照らされ、予想以上に穏やかで、どこか懐かしい雰囲気を持っていたのだ。

  木造と打ちっぱなしのコンクリートが融合したような、レトロモダンな建築。

  白く塗られた欄干、開け放たれた窓。小鳥の声と、木々の擦れ合う音が心地よい。

  ──ここで、人と暮らす。知らない人と。多分、ぶつかりながら。

  軽く息を吸い、門をくぐる。その背筋は、まっすぐだった。

 

  入居初日、午前九時。玄関ロビーに集められたのは、男女合わせて十二名の若者たち。

  少しざわついた空気のなか、凌はスーツの上着を軽く整え、前に立った。

「初めまして。今日からこの『星見坂レジデンス』で、皆さんと一緒に暮らすことになった谷川凌です。よろしくお願いします」

  はきはきとした声が空気を切り、数人がぴしっと姿勢を正した。

  一方で、反応の薄い者、あくびをかみ殺す者、目を合わせない者──反応はさまざまだった。

  その中に、一人の女性がいた。

  髪を無造作に後ろで束ね、顔を上げることなく、ただ淡々と立っている。

  水谷愛梨──今回の共同生活メンバーの一人だ。

  凌は事前に住人の情報を頭に入れていた。彼女は大学院を休学中。理由は明記されていない。

  その表情には「関わるな」という無言のバリアが貼られていた。

(最初から壁を作ってるタイプか。やりにくいな)

  だが、その考えが顔に出ることはない。

  彼は、感情よりも先に「方法」を考える人間だった。

「では、ルール説明を始めます。まずは生活面の共通認識から確認していきましょう」

  手元の資料を開きながら、ルールブックを読み上げていく。

  「門限は午後十時」「備品の持ち出し禁止」「当番制での掃除・調理」「地域活動への積極参加」……

「なお、この施設では“共同生活の円滑さ”が最重要項目です。違反が重なった場合は契約解除、すなわち退去もあり得ます」

  その一言に、場の空気がぴんと張り詰めた。

  この一瞬で、「リーダーは容赦しない」と印象づけること。それが凌の狙いだった。

  だが。

「──怖っ」

  小さく、愛梨の声が漏れた。

  皮肉でも批判でもない。ほとんど無意識に出たような、感想に近い声だった。

  周囲が振り返る。凌も当然、聞こえていた。

  視線がぶつかる。数秒の沈黙。だが愛梨は一切、動じた様子を見せなかった。むしろ、静かに視線を逸らす。

  彼女は、戦うでもなく、従うでもなく、ただ「巻き込まれない位置」に立ち続ける。

  そう感じた凌は、その態度に一種の警戒を覚えた。

(……面倒な相手だ)

  第一印象は「関わりにくい」──

  しかしそれは、愛梨もまったく同じだった。

 

  ──初日の夜。

  ロビー横の共有キッチンでは、さっそく夕食当番組がてんやわんやしていた。

  にんじんを細切りにしながら、拓夢がタブレットのレシピを覗きこみ、翔大が手際よくフライパンを振っている。

「俺、料理好きなんすよ。家、男兄弟だったんで」

「ふーん。でも調味料多くない? 味、濃くない?」

  横から未奈が無邪気に突っ込み、翔大が笑う。

  その様子を少し離れて見ていた愛梨のそばに、ひとり、静かな影が落ちた。

  谷川凌だった。彼女と向かい合い、無言のまま壁に寄りかかる。

  愛梨がちらりと見上げる。表情は読めない。

「……文句言いたそうな顔してる」

「いや、俺は指導係であって、監視係じゃない」

「それって、文句言わないだけで、考えてはいるってこと」

「正しいかどうかは、判断材料が揃ってから決める」

  淡々と返されたその言葉に、愛梨は少し目を細めた。

  彼の理論的な言動の奥に、何か引っかかるものを感じ取ったのだ。

「あなたって、いつも“正解”探してるみたいな喋り方するね」

「悪いか?」

「別に。でも、“誰かに正解を出される”のって、わたしは好きじゃない」

  凌は返答を飲み込み、そのまま黙った。

  夜風がキッチンの窓から流れ込む。

  にんじんの甘い匂いと、油のはじける音。

  そして二人の間には、確かに小さな“違和感”が芽生え始めていた。

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