マタ、会エタネ ―全ジャンル踏破企画・ホラー―
「――お先、失礼します」
「あーい、おつかれぇ……」
喫煙室のドア越しに、後輩の佐藤が声をかけてくる。
午前二時、か。
草木も眠ってるはずの時間に、なぜ俺はシコシコと仕事をしているのか。
それはもうひとえに、仕事が終わらないからに他ならない。
広告デザイナーなんて聞こえはいいが、実際のところ業界丸ごとドブラックである。
「あれ、お前自転車だっけ?」
「いえ、電車ですけど、タクシー呼んだんで」
「あーなるほど」
「先輩は? バイクですよね?」
「あぁ。先方からの返事待ちだ、連絡が来たら帰るよ」
「俺、代わりましょうか? そろそろですよね、産まれるの」
「予定日はまだ一週間先だよ。だから大丈夫、ありがとな」
「そうですか……。じゃ、すみません。お先に失礼します」
軽く頭を下げて去っていく4つ下の後輩を眺めながら、俺は煙草を灰皿で揉み消し、次の一本を抜き出した。
ジッポで火を付け、大きく吸い込み、ため息と共にゆっくり吐き出す。
一週間後。
俺は、父親になる。
ガキの頃から癇癪持ちで、気に入らないと誰彼構わず喧嘩を売って回って来た。
何の拍子かデザインに興味を持ち、気がついたら広告制作会社でチーフデザイナーになって、バイク仲間だった彼女と結婚して。
「俺が三十路で親父かよ……」
何とも言えない気分でいると、ポケットに入れたスマホが鳴った。
「やっとかよ……、はい、もしもし、中里です。お世話になっておりますー……あ、OKですか、良かった。ではこちらも失礼致します。――良い週末を」
やれやれ、やっとお役御免だ。
明日……今日は土曜日だ。今の電話で無事入稿が終わったので、今週は土日共に休むことができる。
「さて、帰るか……ん」
吸っていた煙草をもみ消すと、視界の隅に違和感を感じた。
――まだ帰ってない奴がいたのか?
うちの会社の喫煙室は、会議室の一角を強引にアクリルの壁で仕切ったものだ。つまり、会議室からは丸見えで、こちらからも会議室を見渡すことが出来る。
その会議室の隅、俺から見て一番奥の席に、誰かが座っている気配がしたのだ。
明かりがついているのはこの喫煙室だけ。会議室の方はここから漏れる光でしか照らされておらず、それも部屋全体の半分くらいしか届いていない。
仮に、その席に誰かがいたとしても、俺から見えるわけがない、のだが――。
「誰か寝落ちしてんのか……? お疲れ様でーす」
声を掛けてみる。すると椅子に座っていた誰かが立ち上がる、気配がした。
コツコツと革靴の足音を鳴らしつつ、その誰かがこっちに近づいてくる。
内心ちょっとビビりつつ様子を伺っていると、やがて足元から見えて来たその姿を見て俺は、
「ウッ……!」
大抵のことには動じないでお馴染みの俺だが、うっかり悲鳴を上げそうになった。
「う、常務……」
半年ほど前、心筋梗塞によりご自宅で亡くなられた会社の要、常務が俺を真っ直ぐに見つめている。
その瞳は虚ろで、実は何も見ていないような感じもした。
彼は俺の前まで来て立ち止まる。するとどこからか、低い唸りのような音が〝ヴヴヴヴ……〟と聞こえ始めた。
「なん、だ……?」
その音に気を取られたのが隙になったのだろうか。
「……っ!」
気づけば、常務の姿は消えて無くなっていた。
「やっぱ幽霊、だよな……? で、この音はまた別口ってことか……」
低い唸りは依然として続いている。それは会議室の外から聞こえてきている気もした。
いわゆるラップ音というやつか。
――そういえば常務が出て来た時には、靴音のような音が鳴っていた。
あれもまたラップ音の一種なんだろうか。
俺は心霊現象というものには肯定でも否定でもない。まぁ、体験した人がいるってんだからあるのかもなぁ、くらいのものだ。歯に衣着せずに言えば〝特に興味はない〟というスタンスである。
だが、それを現在進行形で体験させられているとなれば、もうそういうことだと信じるしかないだろう。
それなりに現実主義者を自認して来た身として、逆に体験した以上オカルトではない、心霊現象は現実に存在すると認めてしまう方が自分の中での辻褄は合わせられそうだった。
――それにしても。
生前良くしてもらった常務がその相手だったのは、俺にとっては幸運だったかもしれない。会議室の隅にいたのがどこぞの知らん爺さんだったら、恐らくこんなに冷静ではいられなかっただろう。
そんなことを考えながら、俺は喫煙室の空気清浄機の電源を切り、部屋を出る。
――その瞬間、俺は金縛りにあったかのように硬直した。
「……いっ!」
「……」
ドアの向こうに、血塗れになったスーツ姿の男が立っていた。
いや、立っていたというのが正しいかどうかは分からない。
何故ならそいつには、両脚がなかったからだ。
全身を血で染めたその男には、両脚と右半身がなかった。残った左手には携帯電話――二つ折りのガラケーだ――を持っている。
さっきから唸っているのは、この携帯のバイブのようだった。
「なんだ……こいつ……」
血塗れだが、顔は判別出来る。だが俺は、この霊の顔を見たことがなかった。
霊は浮いたまま、ピクリともしない。なんなら、俺のことを見てすらいない様子で、ただそこにぼーっと存在しているだけだった。
――それにしても。
幽霊が出るなんて、俺は聞いたことがない。今日に限らず、仕事によっては普通に徹夜してる社員もいる。プロジェクトメンバー丸ごと残っている時もあれば、今日のように一人の時もある。ここ数ヶ月ほどは働き方改革のせいか、監査が入るのを恐れてか、そういう状況はなくなっていたが、常務が亡くなったのはもう少し前の話だ。誰か見ていてもおかしくはないはずだった。
それに、今目の前にいるボロボロの霊。この会社に在籍して7年になる俺が知らないということは、俺が入社する更に前にいた人なんだろうか。
「持ってるのもガラケーだしな……あ」
もしかして。
俺が入社する前に、同じくバイク通勤で通っていた営業の人がいたと聞いたことがある。その人はたしか、出勤中に鳴った携帯をいじっていた時にトラックと接触して亡くなった、んじゃなかったか。まともに衝突して引きずられ、かなり無惨な状態になっていたという話だったが、もしかして――。
「笹塚さん、ですか……?」
すると霊は目だけを動かし、その空虚な穴のような目を俺に向ける。
そしてそのまま、闇に溶けるように消えていった。
「名前を呼ばれると消える、のか……?」
必死に平静を装っているからか、考えたことがそのまま口に出る。なんなら心臓はありえないほど強く鼓動しているし、背中は冷や汗でびっしょりだ。
だがそれでも、俺は帰る前に寄らないといけない場所があった。
俺の席に、バッグとヘルメットを置きっぱなしなのだ。
俺は三回、深く深呼吸をし、バクバクとうるさい心臓を少しだけ落ち着かせながら、俺の席があるデザイン室へと足を進めていった。
「うっ……!」
デザイン室に入った瞬間、異様な臭いに鼻と口を手で覆った。
腐肉をヘドロとコールタールに漬け込んで煮詰めたような、強烈に不快な臭い。
それも、鼻というより、脳に直接ダメージが突き刺さるような鋭さだった。
「くそ、なんだこれ……!」
俺の視界の先にはMacの置かれた作業デスクが8つほど並んでいる。そのうち一番左の奥にあるデスク、つまり俺の席に〝異様な黒の塊〟が集まり、うようよと蠢いていた。
純粋な黒ではない。この世の全ての色を集め、可能な限り醜くなるように混ぜ合わされた、澱みのような黒だ。
そんな禍々しいものが何故、俺の席に固まっている?
そのあまりの光景を眺め、しばし茫然としていたが、その蠢いている隙間から一瞬、光り輝くものが見えた。すぐにまた黒いものに覆われてしまったが、それは確かに、醜悪に蠢くそれとは別の何かだ。
――なんだ!?
それは恐らく俺の掌に乗るくらいの、勾玉のような紅く輝くなにかに見えた。だが、当然だが俺は勾玉など持ってはいないし、そもそもそんな光るものなど置いてはいない。
俺はもう一度、じっくり目を凝らした。するとまた、蠢くものの隙間から、今度ははっきりと姿が見えたそれは――。
「胎児!?」
俺はそう叫ぶと同時に、黒い澱みに駈けていた。そしてなんの躊躇いもなくその塊に両腕を突っ込む。
それはまだ母親の胎にいるはずの、ようやく身体のパーツが判別できるようになったかどうかの、小さくてか細い生命の形だった。
「くっ……!」
皮膚に伝わる突き刺さるような痛みと痺れ。
それにより、この黒い澱みの正体が、人間の悪意や失意、ありとあらゆる負の感情が凝り固まったものなのだと、そしてあの胎児の正体も、俺は直感で理解していた。
あの子が。
一年前、生まれて来られなかった俺の子が、悪意の塊のようなモノに、呑まれようとしている。
「どけぇっ!!」
腕を奥に突っ込むほど、痛みと痺れが酷くなっていく。指先はもはや、引き裂かれるかと思うほどの痛烈な感覚に支配されていた。
だが、それなら。
あの子をそのままにしてはおけなかった。
俺が悪意に晒されようが、呪われようが構わない。それがあの子に降りかかるはずのものなら、俺が代わりに受けてやる。
その想いのままにあの子を助け上げようとするが、腕の感覚はもはや完全に失われつつあった。
――ダメか。
だが、それは思いもよらぬ形で成功することになる。
「常務? それに……」
俺の両側に、さっき見た常務と笹塚氏が現れて、俺と同じように腕を澱みに突っ込んでいた。
さっきと同じ虚ろな瞳で、しかしどこか必死な形相で。
そして同時に、俺の腕の痛みが和らいで、感覚を取り戻しているのに気づいた。
その指先に触れたのは、ふわりと柔らかく、温かい感触。
俺はそれを掬うように持ち、腕を一気に引き上げた。
「がああああっ……!」
ずるり、と淀みから腕が引き抜かれる。その掌には、柔らかい光に包まれた、かつてエコー画像でしか見たことのない我が子がいた。
「こわかった、な。もう大丈夫だ」
澱みの方を見ると、俺に向かって――というより、この子に向かってずるずると蠢き始めている。その間には、常務と笹塚氏が割って入り、立ち塞がっていた。
「ありがとう、ございます。――常務、笹塚さん」
彼らはゆっくりとこちらに顔を向ける。やはり虚ろな瞳で無表情だったが、どこか微笑んでいるようにも感じた。
だが、彼らでも澱みの動きを止めることは出来ない。二人はやがて、澱みに呑まれるようにその姿を埋もれさせてしまった。
それでも尚止まらない澱みが俺の目の前に迫った、その時。
――Prrrrrrrrrrr。
俺のスマホが着信音を鳴らす。それに気を取られた瞬間、常務も笹塚氏も澱みも、そして掌のあの子も、全てがかき消えていた。
「え……」
唖然としながらも、ポケットからスマホを出す。そこには〝田無総合病院産婦人科〟と書かれていた。
妻が出産する予定の病院だ。
着信ボタンに指を向ける。触れる瞬間、俺の脳に直接、幼いこどもの声が聞こえた。
――ボク、ぱぱノコニウマレタカッタナ。
俺はその言葉に、やはり脳内で答える。
〝パパはてれくさいな、とーちゃんってよんでくれよ〟
――トーチャ?
〝ああ、そうだ。……生まれ変わるときはさ、きっとまた俺のところに来てくれよ〟
――イイノ? アソンデクレル?
〝当たり前だ、おまえが寝るまで遊んで、寝たらいっしょに寝てやるよ。やくそくだ〟
小指を上げる。その指先に、温かいものが一瞬、ふわりと触れた気がした。
〝マタ、会オウネ――〟
――――
着信音が鳴っている。今度こそ着信ボタンを押し、スピーカーにしながら帰り支度を始める。
「もしもし」
『夜分にすみません! 奥様とお子様の容体が……!』
「――え」
バッグを背負い、ヘルメットのインカムに電源を入れる。無線でスマホと繋がり、ヘルメット内部のスピーカーから声が聞こえてきた。
病院とやりとりをしながら、俺は階段を一気に駆け降り、会社の扉に鍵をかけると、バイクにまたがりセルモーターを回す。ギアを入れアクセル全開でクラッチをつなぐと、俺は前輪を抑えつけるように体重をかけてフル加速した。
『さっき破水したと連絡が来て、タクシーで来られて!』
「妻は無事ですか!?」
『意識はあります! ただ、お子様が……』
「子供が!?」
『もしかしたら、もう既に』
「とりあえず急ぎます! 運転中なんでそちらから切ってください!」
ぷつ、と電話が切れる。病院まで大体25キロ、通常なら真夜中でも45分はかかる。
だが今、俺の目の前の光景はおよそ信じがたいものだった。
真っ直ぐの街道、その全ての信号が青だったのだ。しかも俺の他に走行している車両も皆無。
俺は別に清廉潔白な人間ではないが、一々ルールに背くような破天荒でもない。
が、今この時ばかりは違っていた。
「くっ……!」
俺の下に潜む120頭の馬がいななき、全身に爆風のような向かい風を受ける。高速道路でも見ないような数字を、スピードメーターが叩き出している。これで横から車が飛び出そうものなら、さっきの澱みの一部になってしまうところだが、俺には妙な確信があった。
――病院まで、ノンストップで行ける。
結果、俺は12分で病院に辿り着いた。
バイクを降りてそのまま救急窓口に走る。驚く守衛にヘルメットを脱ぎながら名前を告げると、あらかじめ聞いていたらしく、そのまま中に案内された。
「妻は!」
「こちらです!」
待ち構えていた助産師に先導されて分娩室の前まで走る。中に入ろうとすると、彼女に止められた。
「今からは中に入れません。申し訳ないですがこちらでお待ちください」
「そんな……」
「お気持ちはすごく分かります。が、どうか……」
「……」
「それから、これは本当に最悪の場合ですが……」
「……はい」
「どちらかしかお助け出来ないとしたら、どちらをお選びになりますか?」
「え……」
俺は一瞬、何を言われたのか分からなかった。
どちらを、おえらびに?
そんなもの、選べるわけがないだろう。
そう声を荒げようとしたが、直前で思いとどまった。
少しの沈黙の後、俺は答えた。
「……妻を優先してください。彼女には俺の判断だと伝えてください」
「かしこまりました。……全力を尽くします」
そう言い残し、助産師が分娩室に消える。俺は虚空を見つめたまま、ただ茫然と立ち尽くした。
――どれくらいそうしていただろうか。
朦朧とした意識の中で、俺は確かに、その声を聞いた。
〝ダイジョーブ〟
不意に分娩室の扉が開き、俺はビクッと顔を向ける。
そこにはさっきの助産師が、その向こうからは小さく、しかしはっきりとした産声が聞こえてきていた。
「あ……」
「おめでとうございます。――あぶないところでしたが、赤ちゃん、頑張ってくれましたよ」
「あ、あぁ……!」
「処置を済ませたら少しだけお連れします。抱っこしてあげてくださいね」
マスク越しにもわかる笑顔で彼女はそう言い、再び分娩室に戻る。
俺はただ、随喜の涙にくれるばかりで、感謝の言葉すら吐くことも出来ずにいた。
やがて助産師が、柔らかいタオルに包まれた小さな命を抱き、俺の前に来た。
「パパママに会いたくて、この子頑張ったんです。すごく頑張ったんですよ。だから、褒めてあげてくださいね」
俺は小さく頷き、今は小さく呼吸するその生まれたばかりの命を両腕で抱く。
赤くて、小さくて、弱くて、そして強い生命の鼓動を持つ彼は、俺の腕の中にいた。
産着から少しだけのぞく手は結ばれていて、しかし小指だけが立っている。少し不思議に思ったが、俺は思い出した。
――やくそく。
「ぉーぁ……」
「! おまえ、もしかして」
その時、俺には確かに聞こえてきた。
うっすらと笑顔にも見える寝顔の彼のささやき。
マタ、会エタネ――。