泡沫の永遠_2
こちらの話はR15です。
直接的な描写はありませんが、ご自分の判断で読むのをお控えください。
この身を包むこの白という色も、手首や足首を締め付けるようなこの装飾も、ただただ重いだけの首元の異物も全てが全て嫌いだった。憎かった。吐き気がした。逃げ出したかった、この箱庭の世界から。
皮肉にも、かつて開けてはいけない箱を開けてしまった私がそう思うのだった。
溜め息をついて手すりを握った手にギュッと力を込めるとふるふると頭をふった。
煩わしい。
どうせこの絶望も天上人共の感嘆の種になりうるのだろう。私が抑揚の無い声で喋れば、彼らは流水のように滑らかで美しいと言い、無表情のままで受け答えをすれば人形のようで美しいという。
吐き気がする。
遥か昔に美の女神に与えられた魅力という贈り物は、もはや私を縛り付ける呪縛にすぎない。
要らない。要らない。
隅々まで美術品のように磨かれた身体も私を着飾る物体もこの心もこの命もこの呪われた生も、望んでない。欲してない。
なのに。
「そこの女」
そちらに目を向けると何者かが日陰から優々と足を踏み出していた所だった。足元から順に日の元に晒され、その姿は明らかとなった。それは現在、王が留守のこの宮において最も権力を持つ少年だった。
「お前が噂に聞いたものだな?
成る程、実物の方がずっと美しいな」
こちらが何も言わずにただ見ていると、それを無礼だとも言わず少年は笑った。
「まるで、夜を纏ってるみたいだ」
なのに。
私の世界は貴方に再び色付けられてしまうのだ。
「なぁ、何を見ているんだ?
おっと、そうかしこまらんでもよい。
座っておれ」
僅かに目を見張った私の目の前には先日の少年がゆっくりと歩いてくる様があった。
軽い会釈にとどめ、元のように座り直す一方で私は鳩尾の辺りに鉛のような重い物が溜まるのを感じた。
あぁ、また厄介なものが寄ってきた。
「………貴方がお望みになるほどのものではありませぬ、殿下」
しかし、私がこう言おうと関係ないのだろう。
彼ら天上人は何時もそうだ。
「よい、我が知りたいと言っておるのだ。申せ」
彼はそう言うと「隣、失礼するぞ」と、私の隣に座った。未だ伸び盛りの殿下にはこの部屋の窓枠は少し高いらしくて少しずり落ちそうだ。それを何の感慨もなく見つめながら私は抑揚のない声で言った。
「…殿下の御心のままに。
私は空を舞うあの鳥を眺めていたのです」
すると、彼は腕を組んで目を瞑りながら大きく頷く。その所作は流石のもので気品と威厳とを感じさせる。
「ふむ、我が庭園の鳥は真に美しい」
「仰る通りです」
形だけの返事をして、庭を見ずに目の前の少年を観察した。
この少年には世界が極彩色にでも見えているのだろうか?その瞳はキラキラと光輝き、色とりどりの光を反射している。自分がこの庭を見てもただ瞳に光が吸収されるだけだというのに。
しかし、間もなくして彼の顔は苦虫を噛み潰したように歪められた。その原因は十中八九廊下から響いてくる彼の名を呼ぶ大声だろう。
彼は直ぐ様、窓枠から飛び降りると「またくる」と、一言残して部屋から出ていった。
また、来なくて良いのだが。
視線を部屋の扉から窓の外に移すとやはり私には極彩色には見えない。きっと、彼と私とでは身体の作りから違うのだろう。きっとそうだ。
彼はともかく私はただの作り物にすぎない。
そこでまたバンッと大きな音をたてて扉が開いた。
「お前、殿下をお見かけしてないか?」
首だけ動かしてそちらを見ると随分と重そうな衣服に身を包んだ人物が肩で息をして壁に手をついていた。
面倒事はごめんだ。
「いいえ、存じ上げません」
「チッそうか」
すると、彼は扉も閉めずに直ぐに廊下へ戻っていった。
そして私は扉を閉めようとも思わず窓の外に顔を向け、誰もいなくなった部屋で一人、溜め息をつくのだった。
それからというもの彼は暇さえあればここを訪れるようになった。
「今日は何を見ているんだ?」
繰り返されるのは何時も同じ会話。
「…殿下の知る程のことではございません」
「よい、申せ」
「殿下の御心のままに。
私は空を舞う鳥を見ていたのです」
「そなたは今日もそれを見ておるのか。
そなたは鳥が好きか?」
「いいえ」
「ならその鳥の色が素晴らしいのか?」
「いいえ」
「では、そなたは何故鳥を見ておる?」
「…………………羽の羽ばたきが見ていて面白いから、でしょうか」
「そうか……」
明くる日も全く同じやり取りをした。
「今日は何を見ておる?」
「殿下がお知りになる程の事ではございません」
「よい、申せ」
「…殿下の御心のままに。
私は空を舞う鳥を見ております」
「一体何故?」
「羽ばたきが美しいからでしょうか」
このやり取りが終わると決まって彼が一方的に私に話しかけた。私はそれに相槌を打っているだけだったが、彼にはそれで十分だったらしい。
たまに何も言わずにただ時間を過ごすこともあった。彼は黙って私の隣に座っていて、鳥の囀りや草葉が擦れる音が響くとても静かな時間を過ごした事を覚えている。そして、何時も去るとき彼は決まって一言「また来る」と残すのだ。
私にはそれが少し煩わしかった。
そして、ある日の夜。
私はその日宮内の誰かの部屋へ呼び出しがかかっている日だった。きっと部屋で何をされるか…言わずとも知れている。
しかし、部屋を出ようとし、扉の方へ振り返った正にその時。
「こんな時間にどこへ?
誰に呼び出されている」
彼がドアに寄りかかって腕を組んで立っていた。
無論、驚きはした。
何故ここに?何故それが気になる?
だが、そんなことよりどう返答するべきか困った。素直に口を割っては後が面倒に違いない。
「…………散策を」
流石に苦しい言い訳だっただろうか?
彼はさらに苛立ったように組んでいる腕に指を弾ませ始めた。
「この皇子を図るか?言え」
少しだけ部屋の空気に張り詰めるような緊張が走った。頬に触れたいやに生ぬるい風はこの地方の気候としては中々に異様だ。
ここまで言われたら仕方がない。
「神殿へ神官様に呼ばれております」
彼はチッと舌打ちをするとキッと此方を睨み付けて半ば叱り着けるように言った。
「今日は…否、これからずっと誰に呼び出されても行かなくて良い。もし、無理矢理つれていかれるようなら我の名を出せ」
成る程、珍しいこともあるものだ。
前にも似たようなことはあったが、状況がまるで違った。
「はい」
「お前は今日部屋から出るな」
「はい」
そこで、彼は年相応の少し拗ねたような顔をして目を伏せた。
しかし、何も言うことはなく例のごとく「また来る」と言い残して扉を閉めて帰っていった。
彼が扉の奥へ消えた瞬間足から力が抜けて床に崩れ落ちてしまった。
そんな自分に驚いて両掌を目の前に持ってくるとそれもまたか細く震えていて目を見開いた。
その震えを止めようとして互いの手を押さえつけたが逆に震えは大きくなるだけで、思わず震えが止まらないその両手で自分の肩をきつくきつく抱き締めた。
これじゃあまるで、あのときのようではないか。
目の前に小さなしかし底知れぬ闇に塗り潰された口を開いている箱。
戻そうとしたときにはもう遅かった。
"それら"は自分の目の前で瞬く間に世界中に散っていってしまった。
その闇から聞こえてくる絹を裂くような女達の悲鳴が、怒りに満ち溢れた男共の怒号が赤子や幼子達の泣き声が、そして、何より憎悪と憤怒にまみれて自分の名を呼ぶその声が、堪らなく恐ろしかった。
そう、恐ろしくて恐ろしくて堪らなかった。
恐ろしかった。
そこで、はたと気がついた。
そうか、自分は恐れていたのか。この震えは恐れから来ていたのだ。
ずっともう慣れたと思っていたのに、ずっと私は恐ろしくて堪らなかったのだ。
自分が踏みにじられていくのを感じながら自分で心を殺さなければいけない、そうでもしてないと壊れてしまう、翌朝起きてさめざめと感じる絶望と喪失。
しかし、死にたくても死ねない。
自害を選んだ私に与えられるのはいつだって死ぬよりも苦しい道だけ。
あぁでも、今日からそんなことは起こらない。
すると、震えがピタリと止まった。
ゆっくりと手を離すとまるで死者のように真っ白になった自分の手が見えた。
からだの前で手を組むとその手が自分でも驚くほど冷たくなっているのがわかる。
と、そこでようやく、全身から力が抜けた。
見上げると窓から月明かりが覗いていた。
しかし、人の命は儚いものだから、彼が生きているのはきっと瞬きの間だ。
なら、彼の死後私はどうなるのだろうか?
やはりそこに待つのはこれまで通りの地獄なのだろうか?
暫く茫然自失に座っていると、部屋の外から響いてくる足音があった。
それは真っ直ぐこちらに近ずいてきて勢いよく扉を開けた、かと思うとピタリとその場で足を止めた。
「何故泣いているのだ?」
驚いてそちらを見ると、目を見開いたまま完全に硬直している彼が見えた。
何故彼が今ここにいるのだろうか?
これは辺りを照らす陽光の明かりですぐにわかった。
いつの間にか時が過ぎていたようだ。
それよりも彼は何を…?
私が泣いている?
パッと手を頬に当てるとそこは確かに無数の滴の跡に濡れていた。
その事実に、私は彼以上に驚いていてそのまま何も返事をせずに彼と同じく硬直した。
その様子に更に心配したのであろう、彼はツカツカとこちらに歩み寄りながら矢継ぎ早に言った。
「なんだ?昨晩誰かここに来たのか?誰かに何かされたのか?」
完全に私の前に来て止まると、彼はガッと私の肩を掴んで、真っ直ぐと私の目を見つめた。
その瞳は彼の焦燥を雄弁に語っている。
少しだけその場を沈黙が支配した後、私はようやくおずおずと返事をした。
「いいえ、何も」
しかし彼は私の肩を放そうとしなかった。
むしろ、より握る手がきつくなった気がする。
「じゃあ、何故泣いているのだ」
何故。
その言葉に一番戸惑った。
何故なら私も何故私が泣いているのかわからなかったからだ。
「分かりま…せん」
それに、彼は少し訝しげにしてさらに問いただした。
「じゃあ、本当に誰にも何もされてないんだな?」
「はい」
「ただ涙を流していただけなんだな?」
「はい」
「嘘をついてないとこの我が名の元に誓えるか?」
「はい、誓います」
その確認作業のようなものが終わると彼は私の肩を握る手の力を一気に抜いて、安心したように深く溜め息をついた。それから「おっと、すまない」と言って急いで私から手を離した。心なしか彼の耳の端が赤くなっている。そして、何かを誤魔化すように咳払いをすると「それにしても、」と話し始めた。
「お前は随分綺麗に泣くんだな」
そういえば随分と前から感情を表に出して笑ったり泣いたりすることが無くなっていた。決して悟られぬように感情を仕舞い込み、求められるがままに表情を動かしてきた。それが一番生きやすかったから。
やはり、彼もこの顔がお気に召したのだろうか。まぁもっとも、今更感情を出そうと思っても出せるとは思えないのでそちらの方が都合が良い。
そう思って少し目を伏せたその時、
「だが、泣きたいならしっかり泣け」
そう、座っている私を見下ろす形で仁王立ちしている彼が言った。
その言葉が飲み込めずキョトンとしていると「ほらやってみろ!」と、急かされてしまった。
とはいえ泣くときの顔とはどのようなものだったか?
戸惑いながらもやってみようと思えば、案外勝手に顔の肉が動いた。
「うむ、やはりそちらの方がずっと良いぞ」
そう言って彼はくしゃりと笑った。
彼は私よりずっとずっと幼いはずなのに私よりもずっと長く広い世界に生きているみたいだ。
そしてこの時。彼に手を牽かれて、私はその世界にようやく立てた気がした。
視界がぐしゃっと歪んだ。
確かに彼の死後、私を待ち受けるのはまた、地獄かもしれない。
でも、いまはなにも考えずに束の間の安らぎに浸っていよう。そう思えた。