ラベルとボトルとコカ・コーラ
「太陽は神様なんかじゃなくて、ただのでかいガスの塊だ」
この時、彼はどんな顔をしていたか知らない。直視できなかった。もし、彼の表情から無理解のほんの片鱗でも感じてしまえば、冗談だと茶化して二度と話す勇気が出ないだろうと思ったから。でもきっと、彼はいつも通りあのすました無愛想な真顔をしていたと思う。そういうヤツだった。
「地球は平面じゃなくて球だし、動いてるのは太陽じゃなくて地球だ。神様の言葉は絶対だったはずなのに、間違っていた。異端は正統で正統は異端になった」
一息にそう言うと、酸素が足りなくなってあえぐように息を吸った。しぼんだ肺が空気で満たされて、皮と肉と骨の殻を押し上げる。
意を決して、彼の顔を見た。やはり、彼は何を考えているのかよくわからないすました真顔をして聞いていた。それに安堵してふっと息を吐いた。
「なぁ、俺も、天地をひっくり返すような秘密を持ってるんだって言ったら、どうする?」
すがるような心地だった。だけど、何を求めているのか正直自分でもよく分からなかった。惨めったらしく膝をついて突き放されまいと固く衣服を握って引き寄せるのに、唯一己を救う力を持つ者の顔を見て、ただ口をパクパクさせているかのようだった。きっと望みすら自分で決めかねるから彼に決めてほしいのだ。否定か肯定か。どちらにしろ、それは救いになり得ないのだから。
彼は少し考え込むかのように沈黙した。そして、彼の唇が重々しくゆっくり、薄く開いていくのを見た。
「俺たちは太陽がただのガス塊だって知っている。だけど、1 月1日の朝には初日の出を見ようとするし、お天道様が見てるぞって小さい子を叱ったりする。伊勢神宮にはまだ参拝する人がいっぱいいるし、天照大神という名前はありがたいものだとなんとなく思う」
俺は一度か二度、目を瞬かせた。
「ガスの塊だとわかってなお、神への信仰心は失われていないと言いたいのか?」
「いや、そこにはもう神への信仰心なんてほんの1ミリも残ってないに違いないさ」
彼は笑った。俺は期待通りの反応だったらしい。相手に期待通りの行動をさせることができると、本当にうれしそうに笑う、彼の嫌な癖だった。
「俺は思うんだよ。太陽を神様にした人は、太陽が神様かどうかなんて正直どうでもよかったんじゃないかな。明るくて、暖かくて、なくてはならないもの。有難がらずにはいられないもの。それをただ神様と呼び始めただけだったんだきっと。だから、それは、太陽がただのガスの塊になっても変わらないものだったんじゃないかな。変わらないから、俺たちは、いまだに、1月1日は日の出を見ようとするし、太陽の神様はなんとなくありがたいものだと思うんだ」
そこで彼の視線が明後日の方に逸れて、俺は「あ」と思った。
「……そういえば、こんな話があってさ。イスラーム教で太陽は、唯一神がいるから信仰対象じゃないんだけど、神の徴とされていて、神と深い関係性がある。あとキリスト教でもさクリスマスってあるだろ?今でこそイエスの生誕日とされちゃいるが、元は 12/25 に太陽の復活と再生を象徴する冬至を祝うミトラ教の信仰が由来してるらしい......きっと唯一絶対が存在する世界でさえ、太陽は取るに足らないものだと無視できないものだったんだ。何だかインテレスティングだろ?」
彼のらんらんと輝く瞳とようやく目が合った。彼は、自分の考えを聞かれたとき、途中から熱が入りすぎて自分の思考に没入してしまう嫌な、というか、悪い癖があった。今回もきっとそうに違いない。俺の微妙な表情を見ても顔色一つ変えなかったけど、彼はポーカーフェイスがうまかった。特に何か失敗したとき、よく誤魔化すのに使っていた。
「つまりさ、例え喜一が天地をひっくり返すような秘密を持っていたとしても、喜一が変わらず親友でいてくれるなら、俺は変わらず喜一のことを大事に思うよ」
彼の背後で沈む夕日が眩しかった。腕で視界を覆うと、ちょっと前からうるんでいた瞳から涙があふれた。
「お前、なんでそんな簡単に大事とか言えるんだよ。気持ち悪いな」
「じゃあ他になんて言えばいいんだよ。理系なんだよ。察しろよ」
目元をごしごし擦ると、彼の顔をにらみつけてやった。彼は肩をすくめて見せる。
「てゆーか、さっき本題忘れてただろ」
彼は一瞬きょとんとして、こちらを見つめ、それからくしゃりと笑った。
「あ、ばれた?」
相変わらず痛いほど眩しい夕焼けと、悪びれもせずに笑う彼と、彼のことが手に取るように分かるつもりでいる自分と、事実そうであることが憎たらしくてたまらなかった。
俺は宇宙人だ。
取って付けたような嘘でも、出来合いの冗談でもない。
ちょっと前に、初めて他の生命体の観測に成功した俺たちは、その生態を詳しく調べるべく擬態して潜入することになった。俺はそのうちの一人で、彼のクラスメイト田中喜一に擬態している。田中喜一と彼は、俺が田中喜一に擬態する前日に初めて会話したぐらいの浅い関係で、どちらも他に仲のいい奴なんていなかったから、俺たちは何の障害もなく仲を深めていった。彼らは予想通りそこまで科学技術が発展しているわけではないようだった。だが想像以上に我々とよく似た、いやひょっとしたら我々よりも高度な社会性を有しているようだった。
挨拶に始まって、授業中もする必要もないコミュニケーションをとろうと四苦八苦して、大義名分を得た業間休みには宿題を写したり、どうでもいい話を延々とした。放課後にはカラオケに行ったり、誘われて始めたバイトに一緒に行ったり。
いつの間にか、彼の思っていることが手に取るように分かるようになっていた。それは彼も同じことで、口に出してもないのに今の気分はコカ・コーラだとか。お前良く分かってんじゃんと笑いながら感じるのが、焦りや恐怖から、単純な心地よさに変わって、ついに痛みが走るようになったのはいつからだったか。
でも、田中喜一から採取したサンプルで作ったこの皮と肉と骨の殻を脱ぎ捨ててしまうと、途端に何もわからなくなってしまうのだった。手に取るように分かるはずの彼のこと。彼よりもずっと長い時を一緒に過ごしてきた同僚の考えること。母星で待っているだろう母のこと。誰のこともこんな、心の底からつながってるんじゃないかなんて今まで一度も思ったことはなかった。自分の本当の姿に戻るのが怖いなんて感じるようになったのはきっと彼との距離感が心地よいと思うようになった頃とおんなじだ。
そんな毎日も、今日が最後だった。
明日、俺たちは母星へと帰還することとなっている。地球に俺たちよりも進んだ科学技術や有用な資源がないとわかったからには、もう二度と地球には来ないだろう。もし、来るとしても、俺はクルーには選ばれないだろう。もし、選ばれたとしても、彼が俺を俺だと気が付くことは万が一にもない。この皮と肉と骨の殻は処分されることが確定している。もともと、成長に必要な時間を早送りして無理やり作った体だ。耐久性は天然のものより著しく低かった。その耐久性ゆえに設定された帰還日でもある。
「俺はお前との毎日が永久機関のように続いていけばいいのにって思うよ」
にやりと口角を釣り上げて言うと、彼は心底いやそうな顔をした。
「お前、永久機関ってなぁ、一種なのか二種なのか、まぁどっちでもいいけどさ、それってつまり変化もしないし、終わりもないってことだろ?俺はまっぴらごめんだね、実現不可能で結構」
実に彼らしい答えだ。残酷なまでに、いっそすがすがしい。嘘だ。結構、傷ついた。残酷極まりない。
どういうつもりで言ったのか分かってるくせに。彼曰く、比喩にしろ、言葉の本来持つ意味の一部を切り取るだけじゃなく正しく使うべきだとか。いつか言われたことがある。そういう頑固なところが少し嫌いだ。
「俺が理系で宗教に明るくてほんとついてるよな、喜一」
そう言うと彼は頭の後ろに腕を組んでゆらゆらと歩き始めた。俺はじっとその後姿を見つめる。
じゃあ今、俺はバラバラなラベルとボトルに入ったコカ・コーラなんだと言ったら、彼には正しくその意味することが伝わるだろうか?そして、伝わったとして、やはり彼は、バラバラなラベルとボトルを気にもとめないで、俺を親友と呼んでくれるだろうか?
ずっと、一度地動説を取り下げたガリレオのことをダサいと思ってた。でも、当事者になって、俺には自説を取り下げるどころか、言葉にして伝える勇気すらなくて、大勢に囲まれて法廷に立つ姿が後世で描かれたガリレオが今は最高にかっこよく感じる。
明日の朝、田中喜一に挨拶したとき、それが俺じゃないことに彼は気が付くだろうか?
ぎゅっと眉間に皺が寄った。
気が付いてくれたらいいのに。
そんなことを思った。
まさか明日、この日常が終わるはずないから。