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ハロー!マイスウィートエンジェル!_end

はっと我に返った。途端、からだの隅々まで行き渡っていたようだった活力はすっかりとなりをひそめて、体が石像のように重く、固くなった。

老人は一度か二度、瞬いて、窓の外の美しい塔を見つめた。

もう、ぼんやりとしか彼女の顔や声は思い出せない。なにせ彼女と過ごしたのはたった3か月にも満たないし、その3か月とは比べ物にならないほどの長い年月が過ぎた。だが不思議なことに、彼女の存在は老人のどこか深くまで根を下ろしているらしく、ふとしたときに走馬灯の如く記憶が蘇るのだった。特に___あの塔は。

いつもなら日除けを下ろして見えなくしているのに、今日は下ろすのを忘れていたみたいだ。

老人は目を瞑って、深く息をはいた。

あれから一度も、彼女がここを訪ねてきたことはない。それは至極当たり前なのかもしれないが、戦火の火の粉は彼女にも降り注いだことだろう。もしかしたら彼女はとうの昔に死んでしまったのかもしれない。

そこまで考えたところで、老人はゆるゆると頭をふった。

考えたところで今更という話だ。そんなことよりも、確か今日はマルコと飲む約束がある。そろそろ出掛ける準備をしてもいい頃合いだ。

マルコは旧い友人で、それこそ彼女の家のある並びの一軒家にすんでいて彼女との逢い引きの唯一の協力者だった。戦争で二度、散り散りになったが、幸運にも二人とも生き残り、二度再会を果たした。再会したときは人目も気にせずその場で抱き合ってお互いの無事に涙したものだ。そういうわけで彼とは今でもこうして余暇を過ごす親友のままでいる。

老人は、すっかり煙の立たなくなったパイプを卓の上の灰皿に置くと、立て掛けておいた杖を支えに重い腰を上げて椅子から立ち上がった。ゆっくりと窓へと近づき、窓枠へ手をつく。休日ということもあって、通りはいつもより人が多い。美しい海を持つこの街は休日の方がいつもより賑わうのだ。

一度深く息を吸って、また吐く。老人の部屋からは海は見えない。そもそも海は真反対だ。ただ、手入れのされていない塔のみが少し寂しく目に映った。

窓を閉めようと、窓枠から身を乗り出して取っ手に手を掛けようとした、その時だ。


軽快なエンジン音を鳴らして黒塗りの丸みを帯びた車が老人の視界に滑り込んできた。

滑らかな車体は日の光を眩しいくらいに反射している。

老人にはどこか確信めいたものがあった。

そして、その車はやはり、老人の目の前に、彼女の家の前に停まった。

まず、手前の運転席の扉が開いて、初老の男性が降りてきた。仕立ての良さそうな黒いスーツと白い手袋を身に付けている。彼は手際よく後部座席へ回ると丁寧な所作で扉を開いた。

そこにいたのは白い服を身にまとった女性だった。間も無くして女性はゆるりと車から降りて、その姿を惜しげもなく陽の下にさらした。

若い女性だ。

まだ少女の域を出ない。あの夏に出会った彼女と、ちょうど同じくらいか。明るい癖のある茶髪が風になびく。裾の長い白いワンピースが足元の影を揺らし、少女はスカートに手を添えて、風に耐える。その姿が、野原で風にそよぐ一輪の花に、いつかの光景によく、似ていた。

それはまるで、時が止まってしまったかのようだった。あるいは、瞬きの隙に時が巻き戻って、全く知らぬ人生が今目の前で新しく始まったかのようだった。

老人は窓の取っ手に手をかけたまま息をするのも忘れてその光景に見入っていた。

少女はスカートを一度か二度、軽く払うと、凛と背筋を伸ばした。すると突然少女がこちらを見上げるそぶりを見せた。老人はとっさに窓から身を引いて後ずさった。もし目が合ったら、どことなくまずいと思った。

少し間をおいてから再び窓辺にゆっくりと近づいて往来を覗き込んだ。そこには少女も初老の男性もいなかった。人々は何事もなかったかのように行き来している。唯一ポツンと残された黒塗りの車が、少女らの存在はまぎれもない現実だと告げていた。

ふと、背後からかすかな足音が聞こえてきた。二人分だ。階段を上がっている。一歩踏み出すごとに音は大きくなっていき、それに合わせて心臓の鼓動が痛いほどに高鳴っていった。ついに、ほんのすぐ近くまで足音が迫る。音は生々しく、二人が履いている靴が見なくても想像できるほどだ。扉の前で足音が止まった時、ひと際大きくどきりとした。それから、控えめに扉がたたかれて、「ごきげんよう」と少し上ずった少女の声が響いた。吐息交じりに「あぁ…」と声が漏れた。少女がこの部屋を訪ねてきてくれた安堵と、少女から感染するように広がった緊張感とで足元がおぼつかない。


「ダニエルさんのお宅でしょうか?」


すっかり年老いてしまった老人の頭は何をすべきかとっさに判断してくれない。少しの沈黙を経て半ば無意識に口をついて出たのは「待っていて、今開けるから」という、あの夜の台詞だった。すると、不思議なことにまるであの夜にいるかのように感じてしまって、今度こそ錯覚などではなく本当に体のどこからともなく力がみなぎって来るのだった。しばらく酷使することのなかった体が軋みを上げる。もたれるようにドアのノブをつかんだ。カギがガチャリと音をたてる。実際いつもよりゆっくりと扉を開いたのだが、明らかにそれよりもゆっくりと開いていくように見えた。灯り一つつけていない室内よりも、日が射し込む廊下の方がはるかに明るくて開くとともに飛び込んでくる光が眩しかった。

少女を見て最初に思ったのは、あぁ“彼女”がいる。ということ。それから、戸惑いと、あきらめにも似た落胆。

少女は実に美しい新緑の瞳をしていた。それは、過ぎ去ってしまった時間よりも遥かに雄弁に、少女が彼女でないことを老人に気付かせた。


「初めまして。私、カーラの孫のメアリです。祖母に頼まれてあなたを訪ねに来ました」


つい一秒ほど前まで老人の体を突き動かしていた力が急に霧散して、どこかへ消え失せてしまった。体が重くて仕方がない。時計の音がやけに耳についた。

少女の新緑の瞳を食い入るように見つめたまま老人は呟いた。


「私は…今の今まで夢を見ているのかと思っていました。カーラが訪ねに来てくれたのかと…」


すると少女はどこか嬉しそうに答えた。


「えぇ。祖母にはよく、お前は私の若いころに生き写しだねと言われたものです」


老人は目を伏せると「えぇそうでしょう」と頷いた。それから「立ち話もなんですから、おあがりになりますか?」と聞くと少女はそばに控えていた初老の男性の小言を無視して薄暗い居間の席についた。老人が「この部屋は日当たりが悪くてね」と言うと少女は「過ごしやすくて素敵ですわ」と微笑んだ。老人は取り敢えず二人分お茶を淹れると少女と初老の男性の前に置いた。なにぶんマグカップも椅子も二人分しか無いので、かろうじて席は安楽椅子を移動させて三人分用意した。

老人が席につくと、少女は緊張した面持ちで話し始めた。


「実は…先日、祖母が亡くなりました」


老人は「そうですか」と呟いた。思っていたよりも平気だった。ずっと前から、彼女との永遠の別れを心のどこかで覚悟していたからかもしれない。


「それで私、生前祖母から頼まれたことがあって」


すると少女は携えていた小さなポーチの中から手のひらほどの白い封筒を取り出した。


「これを、私から直接あなたに渡してほしいと」


差し出された手紙を、老人は震える手で受け取った。それはひどく軽かった。華やかな紋章の封蝋の斜め下には、老人の名前がファーストネームだけ書いてあって、裏には彼女の名前が同じようにファーストネームだけ書いてあった。どちらにも住所はなく余白が広すぎるせいか、寂しい印象を受けた。


「よくこの家がわかったね」


少女はふふっと声を出して笑った。顔をあげて少女を見たとき、彼女もこんな顔をして笑っただろうかなんてことを思った。


「祖母はあなたのことをよくおとぎ話のようにして話してくれました。祖母の生まれ育った港町には天使がいて、彼は普段、煙突掃除負の姿をして暮らしているから皆見た目に囚われて気が付かないのだけれど、本当は誰よりも優しくて素晴らしい心の持ち主なのだと。大事な友人だったのだと言っていました。だから私、実は今日あなたに会うのをとても楽しみにしていました」


老人は困ったような笑みを返した。


「私はそんな大層な者ではありませんよ。彼女こそ、私にとって…えぇ、とても大事な友人でした」


言いながら、老人は自分の言葉がまるで自分自身を説得しているかのように感じた。

そこに追い打ちをかけるように少女は聞いた。

「よろしければ、あなたから見た祖母の話をお聞かせ願えますか?」


老人は重い口を閉ざしたまま、ううと唸った。しかし、少女の純粋な問いを無下にしようとは思えなかった。

なんだか急に口寂しくなって、パイプを手に取ろうとしたが、パイプは離れた卓の上だった。手持ち無沙汰になってしまった手を握り拳にすると口元にあてる。そして深く息を吐いた。

何を話せばよいか迷って、すぐには話し始められなかった。老人が何を話せばよいやら決めあぐねているのを少女はじっと待っていた。


「…すみません、決して、彼女のことをこう…何も考えたことがないと言ったら変ですが、そういうわけじゃないんです。ただ、どう言ったら良いのか…彼女と過ごしたのはたった3か月で、もう最近じゃ顔も声も上手く思い出せないんです…だけど、だから、彼女が私にとってとりとめもない過去の記憶になってしまったわけじゃなくて...」


何を言ったら良いのかわからなくて、ただその時ふと彷徨わせた視線が再びあの塔をかすめ捉えた。

青い空、オレンジ色の瓦、白い服、揺れる影、踊る癖毛。

それは人生で最も美しい景色。


「.............えぇ、そうです。

今でも、彼女のことをよく思い出します。

彼女は無垢な心の持ち主で、それでいて、とても賢い人でした。私に、人と出会うことの奇跡と、儚さを教えてくれました。私の人生に、彼女という登場人物が紛れ込むことなんて誰が想像したでしょう。彼女と過ごした3か月は私にとって人生で最も輝かしい日々に違いありません。戦争に勝って帰ってきた時でも、自由を勝ち取った時でも…あれほど今現在だけを夢見て生きた日は他にありませんでしたから」


老人は少女をじっと見つめた。やはり、少女の瞳は鳶色でない。だが、少女の相貌は彼女の面影をくっきりと浮かび上がらせていて、それを見ていたらするりと言葉が口をついてでた。


「今日あなたが訪ねてきてくれてよかった」


その言葉を聞くと少女は喜びと悲しみが入り交じったような曖昧な表情を浮かべた。


「私、今分かりましたわ。きっと、祖母はあなたに覚えていてほしかったのですね。だから、私に直接渡してほしいなんて頼んだのではないかしら」


そうだといい、と老人は思った。もし、そうだったら、彼女にとって大事な友人であり続けた自分を認めてやれる気がした。


「ありがとうございます。封筒を開けても?」


「えぇ、もちろん」


老人はもう一度だけしげしげと封筒を眺めた。何度見ても自分の名前だけが場違いだ。美しい字。上質な紙。貴い紋章の刻まれた重々しい封蝋。もうこれ以上見るものはないと納得すると、丁寧に封蝋をはがしにかかった。封蝋は、やがてしっとりとした音を立ててきれいに剥がれた。中を確認すると、老人はおやと驚きで目をぱちくりさせた。それは老人の予期していたものとは違った。

恐らく画用紙だ。封筒の中に指を差し込むと、思いの外ごわごわとした感触が指の腹から伝わってきた。皺や折り目を作らないようにゆっくりと引き抜く。それとともにそれが何か、徐々に露わとなっていく。

それは絵だった。

鉛筆だけを使って描かれた、まるで下書きのような絵。

片手間に書き始めた落書きだったのだろうかと直感的に思った。最初はここまでしっかり描くつもりはなかったという気持ちが鉛筆だけが使われていることを説明している気がした。あるいは単にこれが完成形である気もした。掠れた黒鉛から埃と炭が匂い立つように感じた。

男が一人、屋根の上に立っている。煙突に手をやって、体を支えながら、日の刺す方を見ている。眩しいだろうに、男は目を細めるだけで、片腕は宙に垂れるばかりだ。

その男を、どこからか見上げている。

老人はその絵がひどく眩しく感じて目を細めた。男はあの夏の若者に違いない。また、男の足元に書きつけられた日付がつい先月のものであることに胸が熱くなった。確かに、男は全然似ていなかった。まじまじと見つめて、そして老人は何の気なしに紙を裏返した。

ゆっくりと目が見開かれていく。


懐かしい言葉だ。あの日の選択は正しかった。そう、確信させてくれる言葉。

多くの苦難があったに違いない。多くの悲しみがあったに違いない。それでも彼女は思ったのだろう。俺だって、と、叫んでやりたい。できることなら直接彼女に叩きつけてやりたい。それが叶わないのが、ただ悲しい。


病めるときも、健やかなるときも、俺は君のよき友人であっただろうか?

























ハロー!マイスウィートエンジェル!

あなたのおかげで私、くっそ幸せ者だったわ!

最後まで読んでくださりありがとうございます。

この話は1900年代のイタリアをイメージして、もしかしたら似たようなことがあったかもしれなぁと思いつつ書きました。

あなたには誰が天使に映ったでしょうか?

楽しんでいただけたならとても嬉しいです。

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